150.荀子 現代語訳 楽論第二十 一章-前

楽論(音楽に関する論)第二十

一章

 楽(音楽)というものは楽(楽しみ)である。人情が必ず免れないものである。つまり、人には楽しみがないというわけにはいかないし、楽しめばそれは必ず声に出たり行動に現れるのである。このために、人の道は、この音声動静と性術(心の使いかた)の変化はここに尽きるのである。

 人は楽しまないというわけにはいかないし、楽しめばそれが形として現れないわけにはいかない、そして、形として現れているのにこれに何の処方もしないのなら、乱れないというわけにはいかないのである。

 先王はその乱れを嫌い憎んだ。このために雅頌の音楽を作ってこれを導き、その音楽によって楽しませる半面で邪悪に流れないようにし、その文飾によって理解させる半面で感情を理の内には止めないようにし、その緩急抑揚長短音節によって人の善い心を感動させるに十分として、かの邪悪の気と接することがないようにする。これが先王の楽を立てる方術である。そうであるのに、墨子がこれを非とするのはなんたることか。

 だから、楽は、宗廟の中にあって君臣上下でともにこれを聴けばお互い和敬するようになり、門の中にあって親子兄弟でともにこれを聴けばお互い和親するようになり、郷里族長の中にあって老若がともにこれを聴けばお互い和順するようになる。

 この故に、音楽とは一つのことを省察して詳しくすることにより和を定めるものであり、楽器を並べて節目を飾るものである。異なる旋律が合わさって文飾を成して、一つの道をともに進んで千変万化に対応するのに十分である。これこそが先王の楽を立てたすべである。そうであるのに、墨子がこれを非とするのはなんたることか。

 雅頌の音楽を聴けば心と思いを広くすることができ、武器を持って屈伸動駆する訓練をすれば容貌を荘厳にすることができ、鐘の音を調整して合図の音を決めれば行列は規則正しくなって進退も整うのである。

 この故に、音楽というものは、国から出ては征伐や誅殺をするためのものであり、国に入ってはお互いに譲りあうためのものであり、征伐や誅殺をすることとお互いに譲りあうこととは正反対のことであるけれど、深いところではその義が同じなのである。国から出て征伐や誅殺をするためのものであるからこれを聴いて皆ことごとく服して、国に入ってはお互いに譲りあうためのもであるから皆ことごとく心服するのである。

 つまり、音楽とは、天下を整えるものであり、中和の起源であり、人情が免れることのできないものである。これが先王が音楽を立てたすべである。そうであるのに、墨子がこれを非とするのはなんたることか。

 また、音楽というものは先王の喜びを飾るためのものである。軍隊や武器というものは先王の怒りを飾るためのものである。先王の喜怒は整えられて正しくなっている。この故に、先王が喜べば天下もこれに和して、先王が怒ればいかなる暴乱でもこれを畏れるのである。

 そして、先王の道では礼楽こそその盛んなものである。そうであるのに墨子はこれを非とする。だから言うのだ、墨子の道とは、目が不自由であるのに白と黒を見分けようとし、耳が不自由であるのに音が澄んでいるのか濁っているのか聴き分けようとするようなことで、沖縄に行きたいと思いながら北にそれを求めているようなものであると。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■現在では、この儒教の楽、先王の楽がすっかり廃れてしまって、音楽と言えば、専ら「人情の免れざる所」のためにあるものとなってしまっている。さらに言うなれば、日本でもてはやされる音楽は、まさに流淫の楽であって、人の心に節操を設けてそれを中和させようとするばかりか、むしろ、人の助長すべきでないような淫乱で邪悪な部分を助長しているようなものが多いように感じられる。もちろん、そうでないものもあるだろうが、「人と和するための音楽」というのも、もっと多く作られ伝えられていくといいと思う。最近の音楽は「人と和する」ことより「個人の慰み」ために作られているものが多いであろう。そのように考えてみると、君が代のメロディーなどは、この儒学の原理がとてもよく反映されていると思う。「国(天皇)を思う気持ちが最高潮に達しているが、それを中和させ、人が相互にその気持ちを共有できるようにすること」ができていると思う。あと、教会で歌われるような讃美歌などもこの荀子の原理が良く適合したメロディになっていると思われる(詳しく聴いたことないので予想である)