133.荀子 現代語訳 天論第十七 八・九章

八章

 星が墜ちて木が鳴る。国の人は皆恐れて、これはどうしたことだ、と騒ぐ。

 答えよう。そんなもの何でもない。これは、天地の変、陰陽の化というもので、単なる滅多に起きない現象である。これを怪しむだけなら差支えないが、これを畏れる必要はない。かの日食や月食があり、時期外れの風雨があり、怪星がたまたま現れるようなことは、この世がある限り当たり前にあることである。

 上が明らかで政治が安定しているならば、こういったことが引き続いて起こったとしても、何も害われることはない。上が暗愚で政治が安定していないならば、こういったことが一つも起きなくても、何も益すことはない。

 かの星が墜ちて木が鳴るようなことは、天地の変、陰陽の化というもので、単なる滅多に起きない現象でしかないのだから、これを怪しむだけなら差支えないが、これを畏れる必要はない。

 しかし、それがしばしば起こるようなことで人妖(人のもたらす妖しいこと)であるならば、これは畏れなければならない。

 耕すことが粗悪で収穫を損ない、草刈りが行き届かずに実りを失い、政治は険しくて民衆を失い、田は荒れて収穫は悪く、穀物は高くて民衆は飢えて、道路に死人があるようなこと、このようなことを人妖と言うのだ。

 政令は明らかでなく、挙措(やることとやめること)が時を得ていなくて、生産活動がうまく行われず、勉力も時期外れで、こうして、牛が馬を生んだり馬が牛を生んだりして、家畜すらも妖しいことをする。こういったことを人妖と言うのだ。

 礼義も修まっていなくて内と外での分別がなく、男女関係も淫乱で、親子でも疑いあって、上下が背き離れて、外寇が並び起こる。こういったことを人妖と言うのだ。

 妖は人の乱れから生じる。これら三つの人妖があるのなら安泰な国などない。この人妖の話は卑近なことであるけれど、そこに起こる災いは悲惨なものである。怪しまなければならないし恐れなければならない。

 言い伝えに「万物での怪しいことは記すだけで話すことはしない、無用な弁論と鋭さを欠いた考察は捨ててこれを治めない」とある。かの、君臣の義・親子の親・夫婦の別のようなものは、これすなわち日々に切磋して怠らないのである。

九章

 雨乞いして雨が降るのはどうしてか。

 答えよう。他でもない。雨乞いしなくても雨が降るのと同じである。

 日食や月食が起こればこれを助ける儀式をして、天が干ばつを起こせば雨乞いして、占いをしてから大事を決するようなことは、これによって何かを求めているわけではない、これを文(かざ)っているのだ。

 この故に、君子はこれを文っていると思うのだけど、百姓はこれを神秘的なことだと思う。文っているだけだと思えば吉であるが、これが神秘的なことだと思えば凶である。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■いかにも荀子らしいと思う。こういった考えが、古代にあって科学的と思う。しかし、この考え方が、儒学の本流でないというのは間違いというものであろう。▼論語・述而第七より「子、怪・力・乱・神を語らず」▼福沢諭吉も、神様のお札で尻を拭いたことがあるそうだ。そうして、罰も何も当たらなかったと開き直ったらしい。

■馬とか牛の記述は、人が、馬を牛として使ったり、牛を馬として使ったり、食用の豚の代わりに農事に使う牛を食ったりする、という意味であろう。だから、不思議なことでなくて、人の起こす人妖なのである。

■人妖をまとめるとこういったことになろう。
1.食物に不足が生じること
2.使うべき時に使うべきものを使わず、使うべき事に使うべきものを使わず、適切な時と事に明らかでなく、そのことによって不具合が生じること
3.節度と貞節が保たれないことによってけじめがなくて乱れること
▼現在の会社組織だとこのように書きかえられるだろう
1.給料体制がおかしくて偏りが大きい
2.道具は用途と違う使い方をされて、行事も仕事もバッティングする
3.セクハラ・パワハラモラハラなどの公私混同が頻繁に起こっている