134.荀子 現代語訳 天論第十七 十〜十四章

十章

 天に在るもののうちで日月より明らかなものはなく、地に在るもののうちで水火より明らかなものはなく、物として在るもののうちで珠玉より明らかなものはなく、人に在るもののうちで礼義より明らかなものはない。

 だから、日月は高くなければその光の輝きも盛んではなく、水火は積まれなければ輝きも潤いも広いとすることはできず、珠玉は掘り出されて現れなければ王公もそれを宝とせず、礼義は国家に加えられなければ功名も白日のものにはならない。故に、人の命は天に在って、国の命は礼にある。

 人の君主たるものは礼を第一のものとして貴び賢者を尊べば王者となり、法を重んじて民衆を愛するなら覇者となり、利益を好んで詐術が多いのなら危うくなり、権謀傾覆幽険(権謀術数を弄して人の足を引っ張ることばかりしてわけのわからない隠しごとばかりすること)であるならば亡ぶこととなる。

十一章

 天を大として天のことばかり思うことは、物を蓄えてこれを自分の裁量のもとにするのとどちらが勝るのか。
 天に従ってこれを褒め称えていることは、天命を制御してこれを自分のために用いるのとどちらが勝るのか。
 時期の到来を待っているだけであることは、時期に応じてこれを使うこととどちらが勝るのか。
 物の自然の成り行きに任せて物を多くしようとすることは、能力を馳せてこれを化成することとどちらが勝るのか。
 物が欲しいと思ってそれを自分の物とすることは、物の道理をわきまえてそれが失われないようにすることとどちらが勝るのか。
 物が生まれないかと願っていることは、どうやってその物が成されるのかという理論を保持しているのとどちらが勝るのか。
 だから、人事(人のやるべきこと)を放っておいて、天のことばかりを思っていれば、万物の情を失ってしまうのだ。

十二章

 百王で変わることの無いことは、道の貫(一貫性のある普遍不変の芯)とすることができる。一つの廃止されることや一つの起きることも、全て貫に応じてそうなるのである。

 貫を知ってこれを弁えれば乱れず、貫を知らなければ変化に対応することができない。貫の大まかな形は未だかつて亡びたことがない。

 乱はこの貫と違うところに生じて、治はこの貫が詳しくされたところに止まる。

 だから、道の善しとするところで貫に中るのなら従うべきであり、道の善しと思われるところでも貫を基準にしてずれているのならそれを為すべきでなく、誤って全く見当違いなことをすれば惑乱することとなる。

十三章

 川を渡る者は深いところに標識を立てて、標識がはっきりしないときは深みにはまってしまうことおになる。これと同じように、民衆を治める者は道に標識を立てて、この標識がはっきりとしていないときは乱れることとなる。礼とはこの標識のことである。

 礼を非とすれば、標識が無くなって世を暗くすることになり、世を暗くすれば大いに乱れることとなる。

 だから、道は明らかなはっきりしたものにして、外と内では別の標識を立てて、表向きにすることとそうでないことに一定のきまりがあるのなら、民衆が陥ることはなくなるのである。

十四章

 万物は道の偏った一部に過ぎない。一物は万物の偏った一部に過ぎない。そして愚者は一物のうちでもさらに偏った一部でしかない。そうであるのに、自ら道を知っているとするが、知っているはずがない。

 慎子は後手ばかりで先手がなく、老子は屈することばかりで伸びることがなく、墨子は平等の立場だけを知って等差を知らず、宋子は寡欲な立場だけを知って多欲に対処できない。

 後手ばかりで先手を打たないなら前の門が開かれるということはなく、屈してばかりで伸びないのなら貴賤が分かれることはなく、平等ばかりで等差がないなら政令が行われることはなく、寡欲ばかりで多欲でないのなら群衆を感化することはできない。

 書経・洪範篇に「好みをおこすことなく王の道に従って、嫌うこともなく王の道に従う」とはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■十一章には、荀子の天に参ずるという言葉の意味がよく現れていると思う。つまり、それを待っていたり、それが何かを思案したり、それに慕情を募らせる暇があったら、それをどのように利用して、それをどのように保持して、それをどのように役立てるのかを求めよ。ということである。実利的で現代科学に通じる考え方と思う。

■十四章に関しては、後の解蔽第二十一に詳しい。