135.荀子 現代語訳 正論第十八 一章

正論第十八

一章

 世俗の論者は「君主というのは、周密であるのがいい」と言う。(周密:本来は緻密であまねくに行き渡るという意味であるけど、限られた人間の力で、全き緻密を保てる範囲は当然狭くなる。だから、君主が周密であろうとすると、側近や家族との連絡や交信だけが密になることになる。これによって転じて、特定の臣下とだけ謀議をすること)

 だが、これはそうではない。君主は、民衆に先んじて唱える者であり、上とは下のお手本である。彼らが、唱えを聞いてお手本を見て動こうとしているのに、唱える者が黙ってしまえば民衆はそれに応じるはずもなく、お手本が隠れてしまえば下が動くことはない。応じないし動かないということになれば上下の関係が保たれるはずがない。このようであるならば、上がないのと何の変わりもなく、不祥であることこの上ないのである。

 だから、上なる者は下なる者の根本なのである。上が宣明であるならば下は弁えを保って治まり、上が端誠であるならば下は素直でまじめとなり、上が公正であるならば下は安らかで正直となる。弁えを保って治まっていれば一つにしやすくて、素直でまじめならば使いやすくて、安らかで正直なら知りやすい。一つにしやすければ強くて、使いやすければ功績が挙がり、知りやすければ明らかである。これが治の生じる所である。

 上が周密であると下は疑い惑うようになり、上が幽険(かすかでわかりにくい)であると下は隠れていつわり欺き、上が偏曲(偏りがあって根性が曲がっている)であると下は私党を組むようになる。疑い惑いがあれば一つにし難く、隠れていつわり欺いているなら使い難く、私党を組んでいれば知り難くなる。一つにし難ければ強いことはなく、使い難ければ功績が挙がることなく、知り難ければ明らかにならない。これが乱の生じる所である。

 この故に、君主の道は明らかであることを利として幽(くら)いことを利とせず、宣(あらわ)であることを利として周密であることを利としない。

 だから、君主の道が明らかであるならば下の人は安心することができ、君主の道が幽ければ下の人は不安を感じることとなる。下が安心していれば上を貴び、下が危うければ上を賤しむこととなる。

 こういったわけで、上の知りやすければ下は上に親しむことになり、上の知り難ければ下は上を恐れることになる。下が上に親しめば上は安心でき、下が上を恐れれば上は危険となる。

 つまり、君主の道は知り難いことより悪いことはなく、下に己を恐れさせることよりも危ういことはない。言い伝えには「これを嫌う人多ければこれは危うし」とあり、書経・康コウ篇には「よくその明徳を明らかにする」とあり、詩経 大雅・大明篇には「文王は自分の徳を明らかにして下を治める」とあるのだ。だから、先王はこれを明らかにして、ただ宣言するだけではなかったのだ。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■現在にも実に当てはまることと思う。われわれが政治家を疑ったり、役人を疑ったりするのは、彼らの実体が「明らかでない」からである。裏で何をしているか分からない、というその不安感が、疑惑を抱かせ、信用を無くさせ、誤解を生んでいる。だから、政治家はまず、自分の役割を明確にするべきだろう。自分の役割を全て明確にしていない政治家がほとんどだ。自分が人と交友を持つのは何のためで、自分が金を集めるのは何のためで、自分が政治家となったのが何のためなのか、包み隠さず明らかにできるのならば、下からの信頼を得ることもできよう。もちろんタテマエとかはなしにしてほしい、そもそも、人と言うのは、完全な嘘をつけない、嘘をついて隠しごとをしていれば、どこかに矛盾が生じて、それが屋漏のようにその周辺を湿らせて、その湿りは絶対に多くの人の目に付くこととなるのである。役人の一番の問題点は、これもまた「どんな仕事をしているのか明らかでない」ことである。彼らは一体何をしているのだろう。私は公共工事に関係する仕事をしていたから、役所と付き合いがあったわけだけど、彼らが何をしているのか全く想像ができなかった。NHKでも使って、毎日官僚の仕事のドキュメンタリーを報道させたらどうか、タテマエとごまかしの編集が無ければ、うまくいくと思うのだが。