100.荀子 現代語訳 王覇第十一 十一章

十一章

 国であるならば治法というものがあり、国であるならば乱法というものがある。国であるならば賢士が居るし、国であるならば能なしの士も居る。国であるならば素直で正直な民衆が居るし、国であるならば乱暴な民衆が居る。国であるならば美しい習慣があるし、国であるならば悪い習慣がある。

 このように二つの事が並んで行われるのが国である。上に偏るのならば国は安泰であり、下に偏るのならば国は危うくなる。そして、上に一であるならば王となり、下に一であるならば亡ぶこととなる。

 それ故に、法が治まっていて、補佐の人は賢く、民衆は素直で正直で、習慣が美しいのなら、四者がうまく整っているのである。こういったことを上に一であるという。このようであるならば、戦うことなく勝ち、攻めることなく得て、兵卒が労することなく天下を心服させることができるだろう。

 だから、湯王はハクの地、武王はコウの地という百里四方の狭い領土だけで、天下を一つにして、諸侯を臣下として、通達に背かれるということはなかった。これには他の理由などない、つまり、四者が整っていたからだ。

 これに対して、桀王や紂王は、天下を保つ確固たる権勢があったにも関わらず、普通の一庶民として暮らすこともできずに誅殺されてしまった。これには他の理由などない、つまり、四者が全て亡んでいたからだ。

 だから、百王の法は同じではないのだけど、それらが帰するところのことは一なのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■これはなんとも荀子らしい一章であると思う。普通の本だと、理想を語るだけで現実を語らず、善を語るだけで悪を語らない。しかし、荀子はそのどちらをも語り尽くすのである。

■多くの人は勘違いするかもしれないけれど、純然たる善や純然たる悪というのは滅多にない。ほとんどの場合はこれらが混沌と入り混じっているのである。プラトンにもこういったような例えがあった。(引用はかなり曖昧)「君の言っている悪人と言うのは、オリンピアの種目で一番を取るような悪人のことだ。こういった人は、滅多にいないわけで、1000人居る中に、1人だけ居るか居ないかである。こういったわけで、ほとんど大多数の人は、悪人でもなく善人でもなく、それらが混ざったものであるのだ。だから、純然たる悪人や純然たる善人についてのことを議論しても、それが意味のないことではないにしても、さほど現実に沿ったものであるとは言えないだろう」

■今回で荀子の現代語訳も百回目となりました。皆さまが読んでくださっていると思えばこそ、続けることができています。ありがとうございます。