99.荀子 現代語訳 王覇第十一 十章

十章

 その貴いことは天子となって、富は天下を保有するほどであり、名声は聖王とまでうたわれて、この上で人を制して人に制せられることがないようにと思うような事は、人情として誰しも同じく欲するところのことである。そして、王者こそが、これを実現する者である。

 色を重ねて着物を着て、味を重ねて食べ物を食べ、財物を重ねてこれを所有し、天下を合わせてその君主となり、飲食は甚だ厚く、音楽は甚だ大きく、寝床は甚だ高く、庭は甚だ広く、諸侯を臣下として使役して天下を一つにするようなことは、これもまた人情として誰しも同じく欲するところのことである。そして、天子の礼の制度こそこのようであるのだ。

 制度が既に確立して、政令が既にあまねく行きわたり、役人が要務を失するなら死罪として、公や諸侯が礼に失するなら幽閉し、四方の国で道徳に背く者があるならばこれを滅ぼして、名声は日月のように明らかなものとなり、功績は天地のように広大なものとなり、天下の人が応ずること影や響きのようになるようなことは、これも人情として誰しも同じく欲するところのことである。そして王者こそがこれを兼ね備える者である。

 だから、人の人情というものは、口は味を好むのだけどこの王者の味より美味なるものはなく、耳は音を好むのだけどこの王者の和音より大きなものはなく、目は色を好むのだけどこの王者の見る文模様と婦女より多いことはなく、体は安逸を好むのだけど王者が安心してどっしりと静かにしているほど楽しいということはなく、心は利益を好むものであるけれど穀禄がこれより厚いことはなく、天下の皆が望んでいることを合わせて、これを兼ね備えて、天下を大事にして制することあたかも自分の子孫を制するかのようである。人がいやしくも正気でまともな常識もあるのならば、誰しもがこのような状況を見てこうなりたいと思うであろう。

 このようになりたいと思っている君主は肩を並べて多く居て、このようなことを実現できる士は世で絶えないほど居るのに、千年経ってもこの両者が廻り合わないのはなぜだろうか。

 これに答えて曰く、君主は公明さに欠けて、臣下は忠信に欠けるからである。君主は賢者を疎んじて自分の好みで人を登用して、臣下は自分の役職を守るために賢者を妬んで足を引っ張る。これこそが、この両者が廻り合うことのない理由である。

 君主は、何故に、心を広く持って、親しいかどうかを省みることなく、また既存の地位にこだわることなく、ただ誠能の士を求めようとしないのか。もしこのようにするならば、臣下は自分の役職を軽く扱って、これを賢者に譲って、その後についていくようになるだろう。このようになるのらば、舜や禹のような賢者も自分の所に来ることとなり、王業も起こることとなり、その功績は天下を壱にして、名声は舜や禹とも肩を並べることとなるだろう。何かすることにおいてこれほど楽しいことはなく、これほどの美事というものはないであろう。

 ああ、人の君主たるものは、この言葉のことについてよく考えるべきである。楊朱は、分かれ道に立って泣きながらこう言った。「これは、足を半歩ずつだけ前に出し、少しずつ積み重ねるようにして過ちを積み重ね、そのようにして、間違った方向に進むこと千里にして、ようやく自分の過ちに気がついたのだ」と。そしてさらに悲しんで泣き叫んだ。ところで、これは、栄辱安危存亡の分かれ道というものだ。その哀しむべき過った選択をすることは、かの楊朱よりも甚だしいものである。ああ、なんと哀しいことか。人の君主たるものが、千年経ってもそれに気がつかないことは。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■最後の楊朱とは、快楽主義者とか究極的利己主義者というものであったらしい。ちなみに、この部分は六章の後にある方が正解であろうと、岩波の解説には書かれている。しかし、私が思うに、これがこの部分にあるのは、荀子を含めた後代の憂国の人の気持ちが凝縮されているものに他ならないと思う。つまり、「どうしていつの時代も、本当に賢い人が頼られることがないのか」ということである。組織の栄辱安危存亡において、最も重要な最初の分かれ道は、人選である。それに足る人が居ないのなら、どれだけ苦労してでも自分で全てやらなければならない。この最初の人選こそが、一番重要な一番最初の分かれ道に他ならないだろう。▼つまり、こういったことである。頭が悪くてずるがしこくて自分の利益のためなら何でもするような人物を重要で高い地位を与えると、下の者は、皆この人の真似をするようになる。なぜなら、そういった人が現に認められているからである。現に認められている人の真似をして、自分も認められようとするのは単純極まりなくて解説の余地のない理論である。この単純極まりない理論に、さらに、自分だけの利益を求めればいいという誰もがなびきやすい思想までくっついているのである。当然、皆が真似をする。真似をすれば、皆が皆で自分の利益だけを求めて争うこととなる。そして、争うこととなれば乱れて、乱れれば亡びるのである。だから、最初の分かれ道は、人選に他ならないのであり、それ以前に自分を人選しているわけだから、自分を修めなければならないのである。