98.荀子 現代語訳 王覇第十一 八・九章

八章

 百里四方の土地が有れば天下を取ることができるとは、決してうわごとではない。この王道を実現するにおいて最も難しいことは、君主がこの王道を知ることにこそあるのだ。

 そもそも、天下を取るとは、土地を全て所有して民衆を従わせるということではない。道によって人を壱にするだけでよいのだ。かのその人がいやしくも壱となるならば、その人が自分の所から去って、他に行くということがあるだろうか。

 だから、百里四方の土地しかなかったとしても、爵位は天下の賢士に割り当てるに十分であり、役職と事業は天下の能力者に割り当てるのに十分であり、旧法を尊重してそのうちでも善い方を選び、勉めてその法を用いるようにするならば、利益を好む人をも心服させて善に従わせるのに十分なのである。

 賢士は一つになって、能力者は役目を与えられ、利益を好む人も心服する。この三つの条件が備わるならば、天下は尽くされたのと同じであり、この外のことなどはないのである。

 だから、百里四方の土地しかなかったとしても、天下の形勢を全てこちらに傾けるのに十分であり、さらにこの上、忠信と仁義が明らかに著されるならば、人心を全てこちらに傾けるのに十分なのである。天下の形勢と人心の両者が合わさって天下を取ることとなれば、諸侯のうちで後から同じる者は必ず危うい立場になることとなる。詩経 大雅・文王有声篇に「西からも東からも、南からも北からも、心服しないことはない」とは、この人を一にすることを言ったのである。

九章

 ゲイとホウモンとは、射の技術をよく征服した者である。王良と造父とは馬車の技術をよく征服した者である。そして、聡明な君子とは善く人を心服させる者である。人を心服させることができれば形勢もこちらに傾いてきて、人が心服しないのならば形勢はこちらから去っていくこととなる。だから、王者は人を心服させることを最終目標として、それを実現することで満足する。

 だから、君主が、矢を遠くの小さな的に当てれるような弓の名人を求めるならば、ゲイやホウモンを求めるのに越したことはなく、一日のうちに速く遠くまで馬車を進めることのできるような御者の名人を求めるならば、王良や造父を求めるのに越したことはなく、天下を調整して一つにして秦や楚でも制しようとするのならば、聡明な君子を求めるのに越したことはないのである。

 この聡明な君子を求めて得ることができるなら、君主が知を用いることは甚だ大まかなもので十分となり、どんな事をするのにも苦労する必要はなくなるのに、名声は大なることを極め、何事もすんなりと進んで、極めて心に楽しみを持つことができる。この故に、明君は、聡明な君子を宝とするのだけど、愚者はこういった人を最も扱い難いものとして遠ざけるのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■最近毎日更新でないのは消防団操法訓練が始まったからである。あの下らない時代遅れの集まりは、無くす方向か、縮小する方向か、希望者だけが行けばいい方向で、なんとかしてもらいたいものである。時代遅れと言うのは、昔はああやって集まって、家庭の窮屈と職場の窮屈を一時的に逃れて、酒を飲むことくらいしか、男の楽しみが無かったのである。だけど、時代は変わって、この集まりはむしろ負担でしかなくなったのである。

■八章後半の後から同じる者は必ず危ういこととなる。という部分は、易経の水地 比(親しむこと)の卦辞「比は吉なり。原ね筮ないて元永貞なれば咎なし。寧からざる者もまさに来らん、後るる夫は凶なり」とぴったり符合を合すかのようである。