97.荀子 現代語訳 王覇第十一 七章

七章

 だから、国を治めることには道があり、君主たる者にはそれに相応しい仕事がある。こまごました政治の事務処理を連日続けて、一日で詳細まで分けるようなことは、役人たちにやらせるべきことである。こういった仕事は、君主の余暇と楽しみの時間を減らすほどの仕事ではない。然るべき宰相を選んで、この人に役人たちを統率させ、臣下役人が皆やるべき仕事をしっかりと行うようにすることこそが、君主の仕事というものである。

 このようであるならば、天下を一つにして、その名声が堯や禹に並ぶほどになるであろう。こういった君主は、気を配るべき守りどころは至極簡約であるのに細かいことまで全てが行き届き、仕事自体は至極安逸であるのにその功績は大いなるものとなる。服を着て椅子の上に座り、下に降りることがないとしても、全ての民衆がこの人が帝王であることを願うであろう。こういったことを至約といって、これより楽しいことはないのである。

 人の上に立つ者は、人に役目を与える才能を最も重要な能力とする者である。これに対して、匹夫とは自分の能力自体を高める才能を最も重要な能力とする者である。人の上に立つ者は、人を使うことによって何かをすることができるのだが、匹夫は何かしようと思っても自分でそれをするより他なく、百の田畑を守ろうとして事が行き詰まらないようにしようとしても、自分だけで何とかするより他にどうすることもできないのだ。

 一人の身で天下の事を全て聴いているのに、一日のうちで時間に余りができて仕事が少ないのは、人に仕事をやらせているからである。大きくては天下を所有し、小さくても一国を保持して、必ず自分がやってからそれをよしとするのならば、苦労して疲労困憊することこれより甚だしいことはなく、このようであるならば一使用人でも天子のようになりたいとは思わない。このように考えてみれば、天下を平定して四海の内を統一するのに、どうして全て自分でやる必要があるだろうか。このようなことをするのならば、それは労働者の道というものであり、墨子の説でしかない。徳のある人を選んで、能力者を使い、これらの人に役職を与えることこそが聖王の道というものであり、儒者が謹慎して守ることなのである。

 古伝にはこのようにある、「農夫は田んぼを分けて耕して、商人は銭を分けて商売して、職人は事業を分けて勤めて、役人は分野を分けて話を聞いて、建国功労の諸侯は土地を分けて守り、三公は全てを統括して議論をするならば、天子は腕組みしているだけでよい。内外について全てこのようにできるのならば、天下は公平になって全てうまく治まることとなる。これは百王で全て共通したことであり、礼法の大分である。」と。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■この荀子の理論は正しいのだけど、一つだけ補足しないとならない。つまり、このようにすることが人の上に立つ者として最も重要であることは間違いない。しかし、人選を間違えると大変なことになるのだ。そして、正しい人選をするためには、ある程度実務にも携わなければならないだろう。世間知らずのボンボンとか、自信過剰な青びょうたんが人選をすると、ほんとに全てが大変なことになる。とにかく、正しい人選をするためには、正しい知識が必要なのである。