96.荀子 現代語訳 王覇第十一 六章

六章

 国が危ない状態にあるならば、安心して楽しむことのできる君主などあるはずがなく、国が安心できる状態にあるならば、憂えて落ち込む君主など居るはずがない。ところで、国が乱れているとき国は危ない状態なのであり、国が治まっているとき国は安心できる状態なのである。

 そうであるのに、今の人に君たる者は、楽しみを追うことを先行してしまって、国を治めることを後回しにする。これを甚だしい過ちと言わないで何を甚だしい過ちと言おうか。これを例えてみれば、音楽を好みながら耳がないことに安んじて、絵画を好みながら目がないことに安んずるようなものだ。これを哀しいことといわずして何を哀しいことと言おうか。

 人情と言うものは、目はできるだけ美しいものをと求め、耳はできるだけ美しいものをと求め、口はできるだけうまいものをと求め、鼻はできるだけ良い臭いのものをと求め、心はできるだけ安心して楽しいものをと求めるのである。この五つのできるだけ良いものを求める気持ちは、人が免れることのできない人情というべきものである。

 そして、この五つのものを満足させるためには条件がある。この条件が無ければこの五つのものを満足させることなどできない。例えば、戦車万台をも保有するほどの大国であるならば、国土が広大で国庫が豊富であることに加えて、国も治まっていて弁えがあり強くて堅固な道も備わっているもので、このようであるならば、心にゆとりも生まれて心配すべきようなこともさほどないであろう。このようになることができて、その後に始めて五つのものを満足させるための条件が備わるのである。だから、百楽は治国から生ずるものであって、憂患は乱国から生ずるものなのである。(百楽は治国から生ずる者にして憂患は乱国から生ずる者なり)

 楽しみを追い求めることばかりに先行して、国を治めることを後回しにするならば、これはとてもではないけど楽しみを知る者とは言えない。こういったわけであるから、明君というものは、必ず始めに国を治めることをしてそうしてから楽しみをその中に見出す。しかし、暗君というものは、必ず楽しみを追い求めることばかりに先行して国を治めることを後回しにするから、憂患は数えきれないほどになって、必ずその身は死んで国が亡ぶようなことになり、そうしてからやっと楽しみを追うことをやめるのである。これを哀しいことと言わずして何を哀しいことと言うのか。

 まさに楽しみを得ようとしながら憂いを得て、まさに安心しようとしながらどんどん危険な状態になっていき、まさに福楽の人生を歩もうとしながら死に亡んでしまうこととなる。なんと哀しいことだろうか。ああ、人の君主たる者はこの言葉の意味をよく考えなければならない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■現在は民主主義であるから、ここに言う君主とは自分自身、民衆自身である。この荀子の時代に比べれば、現代はかなり平和になり、富んでいるわけであるから、楽しみを求める余裕というものは既に存在しているのかもしれない。是非とも荀子を現代に連れてきて判断を仰ぎたいところである。国のこととなると、私では判断できず、荀子に頼まないとならないが、会社とかの組織の場合とか、個人の場合とかにこのことを当てはめるならば、簡単にものさしを作ることができる。▼もしも、会社や組織にその事業を存続していくだけの何かを生み出すシステムが備わっていなのに、経営者や代表者が己の楽しみを追い求めるのならば、その会社は潰れてしまうこととなるだろう。▼もしも、個人にその国で自分が生きて行くだけの能力や財産が備わっていないのに、その人が楽しみばかりを追い求めるのならば、その人は破産して野垂れ死にすることになるだろう。