common senseについて

最近、少し前に買った、英語版の聖書、Contemporaly English Versionの、Proverbsの部分を読んでいるのだけど、結構な頻度でcommon senseという言葉が出てくる。

common senseというと、「常識」という邦訳が一番有名であるのだけど、どうもそれだけではないし、日本の常識と言う言葉では補えない意味があるように思われる。私の語学力ではヘブライ語と対比しようとも思わないのだけど、この英語のままでも、いろいろと考えさせられる。

一つの意味としては、神を信じる者同士でcommonの、とか、神と自分でcommonの、感覚senseということもあるだろう。

しかし、最近、荀子を現代語訳しているのと、少し前までアダムスミスの道徳感情論に深く接していたことなどが相まって、これは「人間の共感を得れること」といったものではないか、と考えだした。

それで、まずはインターネットの英英辞書で調べてみたところ
Sound judgment not based on specialized knowledge; native good judgment.
plain ordinary good judgment; sound practical sense
などと書かれていた。

さらに、道徳感情論にも良心について書かれている部分があるので、原文と比較して見たところ、そこにはconscienceという言葉が良心として書かれていた。scienceにconをつけているところからもわかるように、理知的な論証的なというようなニュアンスがこめられている言葉のように思われる。

この辺、つまり、良心や常識というものに関してcommonという言葉が使われる辺りが、日本にない感覚であるなぁと思う。アダムスミスが、Proverbsのこの部分を同じcommon senseという言葉で読んでいたのだとしたら、あの道徳感情論の同感理論が導き出されることは、さほど想像に難くないことである。

また、どうしてこれが、荀子と関係あるのかというと、荀子には「類」(たぐい)という言葉がよく出てくるからである。岩波文庫の訳文だと、「大きくて重要な一つの道理と、その周辺の細かいこと」みたいな訳がされているのだけど、私は、これを人間の共感作用というような風に訳している。つまり、人間が同じ人“類”であることによって生まれる共通点というような捉え方である。このように訳しているが、これでも全く荀子の文脈を乱さないどころか、むしろかえってしっくりすることさえある。

それもそのはずで、荀子は、詩経の、または中庸の「斧の柄を 見ながら切るよ この枝を 斧の柄にする この枝を 法則はそんなに遠いところに無い どうして遠いと思うのか」という部分をよく理解し、これを引用することもしているからである。この詩の意味は、王が民衆を治めるのに、「自分の心を基準にしろ」というものである。これは、儒学的な言葉で言うならば、「恕」に当たり、かの有名な論語の「己の欲せざる所人に施すことなかれ」のことであり、また、「夫子の道は忠恕のみ」とあるように、孔子の生涯の道でもあったわけである。

特に落とし所とかがあるわけではないけれど、常識や良心がcommonなsenseであることは、忘れがちなことであるけど、とても重要なことであると思ったし、西洋と日本とでの違いみたいなものが感じ取れた気がした。

補足

Proverbs(箴言)のこの部分は、ヘブライ語の「ビナー」(binah)で、この英語の版ではcommon senseと訳しているようで、 他の訳だと、understandingと訳す場合も多く、理解と訳すのが一般的である。と、教えて頂くことができました。