89.荀子 現代語訳 富国第十 十章

十章

 国の強弱と貧富を観るには、その徴候というものがある。

 上が礼を尊ばないのなら兵は弱く、上が民衆を愛さないのならば兵は弱く、拒否や許諾が信用できないようなものならば兵は弱く、表彰や報償が出ないようならば兵は弱く、将軍や指揮官に能力がないのなら兵は弱い。

 上が自分の功績のことばかりを考えているのならば国は貧しく、上が自分の利益のことばかりを考えているのなら国は貧しく、大臣や役人が多いのなら国は貧しく、職人や商人が多いのならば国は貧しく、数についての制定がなくて物の単位もはっきりしていないようなら国は貧しい。

 下が貧しいのなら上も貧しくて、下が富むのなら上も富む。だから、田畑や村里こそが本当の財産なのであり、穀倉や備蓄物といったものは富の末でしかない。百姓が和気あいあいとしていて事業も時に適って行われるのなら、これこそが財貨の源というものである。兵庫や金蔵などは財貨の流(流れてきてたまたまそこにあるだけのもの)でしかない。

 こういったわけであるから、明君は、必ず慎みをもってして、人々の和を養い、その財貨の流れを節する(節とは、少なくすることでなく、ちょうどにすること)ようにし、財貨の根源を切り開くことをして、時にこの節流と開源を調和し、広々とした様子で覆うかのようにして、下の者には余りが有るようにし、上では不足の心配がないようにする。このようにするのならば、上下が共に富むこととなりお互いにどちらもそれを蓄える場所がなくなるほどになるだろう。これこそが国計を知ることの極みというものである。

 だから、禹王の時代には十年もの間洪水が出て、湯王の時代には七年もの間干ばつがあったにも関わらず、飢餓で青ざめるような者がなくて、十年後には収獲量も回復して陳列して積み上げるほどに余りが出るようになったのである。こうなったことには他の理由などない、つまり、ここまでに述べた本末源流の道理を知っていたからなのである。

 だから、田畑が荒れているのに穀倉が一杯で、百姓は何も持っていないのに兵庫が満ちているのなら、これこそが国のつまづきと言える。その本を切り倒して源を塞いでしまって、それらを末流に集め、このような暴挙に出いているのに、君主や大臣がこれをなんとも思わないならば、その国は立ちどころに傾覆滅亡することになるだろう。

 国によって自分の身を保とうとしているのに、国を保つどころか自分の身をすら保つことができないこと、これを至貧と言って、これこそ愚かな主の極みというものである。富を求めて国を亡ぼして、利益を求めながら自分の身をも危うくしてしまう。

 昔は万国もあったのに、今は十数国しかないのであるが、こうなったのには一つの理由しかない。つまり、これを失う理由はたったの一つしかないからである。人の上に立つ者はこのことをよく心に刻まなければならない。これを知るのならば百里四方の小国でも独立するのに十分である。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■同じようなことばかり言っているけど、これは国だけでなくて会社とかの組織でも全く同じことである。富と利を求めることに加えて、自分を賢いと勘違いすることも気をつけるべきであろう。だいたい、あほな人と言うのは、目先の自分の利益に飛びつく軽挙妄動もさることながら、これに加えてほとんど例外なく自分のことを利口だと思っている。さらに、利口の中身を開けてみれば、下らないつぎはぎの嘘を並べて、それがばれないと思っているに過ぎない。まあ、手品の種がばれないうちは、それなりに信望もあるかも知れぬが、ばれた時が目も当てられない。しかもさらに能天気なことに、自分が常に恥をさらしていることすら気付かずに、あくまで自分は利口だと勘違いしている。ほんとに恥さらしとは、自分を利口と思うことから始まるのかもしれない。さらに言うなら、その利口の仮面を少しゆさぶってやると、激昂して怒るか、さもなくば逃げて顔を合さないようになるのである。情けないことこの上ない。そんなに恥ずかしいなら、自分があほだと認めれば、恥なんて消えてしまうのに。聴くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、とはよく言ったものである。

■これを現代の政治形態や経済形態と比較して見ると面白いかもしれない。つまり、株価が上がっても、社員にやる気が無く、株主への配当もないのなら、駄目なのであろうが、株の市場はそれを反映するはずのものであるから、株式市場制度は全てうまくなるシステムではあるのだろう。また、会社の理想形態は、内部留保、つまり、会社の貯蓄が無い状態が最も良いのであろうが、これもこの荀子の道理に適っている。