90.荀子 現代語訳 富国第十 十一章

十一章

 だいたい、人を攻める者というのは、名声のためにするのでなければ、利益のためにするのであり、そのいずれでもないならば怒りによって攻めることをするのである。

 仁人が国を治めるならば、普段の心持を修めて、身行を正し、礼義を極めて高いものとして、真心と誠実を致し、文化と文明をこれに程良く釣り合わせる。仕官していない在野の人でさえ、誠にこのようにしているのならば、貧乏で雨漏りのするような家に住んでいたとしても、王侯さえこの人と名声を競うことはできない。そして、国がこのようにしているのならば、天下にこの国のことを隠すことなどできるはずがない。だから、国にこういった真の名声が備わるならば、名声のために攻める者はなくなることになる。

 仁人が国を治めるならば、田畑を開いて穀倉を一杯にして日用品を便利にし、こうして上下の心は一つとなって陸海空の三軍(本当は右左中)の力は一つに集約され、遠征して大戦することはできないとしても、国境内に侵入してくる敵から自国国境を固く守り、時を見て軍を繰り出して相手の将軍を取ることくらいは、麦をはらうように簡単にできるであろう。このようであるならば、攻め入ってきた暴国は、何らかの戦利を挙げることができても、損害の方がはるかに大きくて、傷を癒すこともできれなければ、敗北を補うことすらできない。さらに彼の暴国は、己の兵力を頼みにしているわけだから、こちらが仇敵となることを恐れるようになる。このようになるならば、利益のために攻める者はなくなることになる。

 仁人が国を治めるならば、小大強弱の道理を弁え、甘んじてこれを受け入れて慎み、礼節には美しい文があり、贈り物の玉や壁は貴重なものであり、贈与の財物は極めて多く、しかも、これを持して弁舌するのは雅文弁恵の君子なのである。いやしくも人の意がある者ならば、このような待遇を受けて、誰が怒りを感じるというのであろうか。このようにするならば、怒りのために攻める者はなくなることになる。

 名声のために攻める者がなく、利益のために攻める者がなく、怒りのためにも攻める者がないならば、国は盤石よりも安心強固なものとなり、星よりも長らえることができるのである。

 他の人が皆乱れている間に自分だけが治まり、他の人が危険にさらされている間に自分だけが安心し、他の人が皆喪失を重ねている間に自分だけが起き上がってこれらを制するのである。

 だから、仁人が国を治めるならば、ただ今ある状態を保持することだけをするのではなく、また人を兼ね治めていくことにもなるのである。詩経 曹風・尸鳩篇に「立派な君子は、礼儀に違わず、礼儀に違わずして、全国を正すのだ」とあるのはこのことを言っているのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■やっぱり荀子は、孫子も読んでいたように思う。中国の古典は、後の編纂者によってだいぶ内容の挿入もあるそうなので、確定はできないし、そもそも、戦術も正しいことは同じになるはずで、理屈が同じなのは当然と言えば当然なのかもしれない。それで、なぜにそう思うのかというと、利益のために攻めるところの理論は、孫子の形編にある内容であり、他にも孫子の内容ともかなり整合性が取れるからである。また、少し前に「環の端なきが如し」という表現があったのだけど、これは全く同じ言葉が孫子にも使われている。あと一月後くらいに議兵篇というのに突入する予定なのだが、孫子荀子の比較はそのときに詳しく行われることになると思う。