88.荀子 現代語訳 富国第十 八・九章

八章

 民衆に目に見える利益を与えることをしないで民衆を利益のために動かそうとすることは、民衆に目に見える利益を与えてから民衆を利益のために動かすことの利益が多いことには及ばない。民衆を愛することをしないで民衆を使おうとすることは、民衆を愛してから民衆を使うことの功績が高いことには及ばない。

 民衆に目に見える利益を与えてから民衆を利益のために動かすことは、目に見える利益を与えているのに民衆を利益のために動かさない場合の利益が多いことには及ばない。民衆を愛してから民衆を使うことは、民衆を愛して民衆を使わない場合の功績があることには及ばない。

 民衆に利益を与え続けているのに利益のために敢えて民衆を動かすことがなく、民衆を愛し続けているのに功績を挙げるために敢えて民衆を動かすことがないのない者は、天下を取ることができるだろう。民衆に目に見える利益を与えてから利益のために民衆を動かし、民衆を愛してから民衆を使うのならば、国を保つことはできるだろう。目に見える利益も与えてないのに無理に民衆を動かそうとし、民衆を愛しても居ないのに無理に民衆を使うのならば、こういった者は国家の存立を危ういものとしてしまう。

九章

 国が、治まっているのか、乱れているのか、良いのか、悪いのか、ということは、国境に入れば、その兆候というものが既に見えているものである。

 もし仮に、国境で、斥候が巡回をしていてあちこちで入り混じり、国境の関所の検問も厳しいのなら、その国は乱国で間違いない。

 国境付近の田畑は荒れ果てて、町の城郭も壊れているような場合は、その国の君主が貪欲であるとみて間違いない。

 朝廷を観察して位の貴いものが賢くなく、役人の序列を見て治めている者が能力のある者ではなく、よく進言をする者を観察すれば正直者でないならば、そこの君主は暗君である。

 役人の仕事において、税金の取り立てに関することや予算の使い方に関することには、役人も手慣れていて細かいところまで目が届いているのに、その礼義や節操や福利のことに関しては、いい加減でなんの処置も施されていないようならば、その国は恥辱を受けるべき国(辱国)と言えるであろう。

 農夫は田畑での労働を楽しみ、戦士は困難を簡単なこととして受け入れ、役人は法を好んで、大臣たちの議論が整っているのならば、これは治国というものである。

 朝廷を観察すれば位の貴いものが賢く、役人の序列を見れば治めている者には能力があり、よく進言する者を観察すれば正直者ばかりであるということならば、この君主は明君である。

 税金の取り立てに関することや予算の使い方に関することについては、それほど細かい手続きなどもなく簡便であるのに、その礼義や節操や福利の事に関しては、尊んで慎重にして細かいところまで行き届くということであるのならば、これが栄える国というものである。

 賢さが同じならば親近者から貴い位を得て、能力が等しい時は古くから居る者の方が抜擢され、その家臣や役人の中で、卑怯者もみな感化されてその身を修め、乱暴者もみな感化されて素直になり、血の気の多い者もみな感化されて正直であるようならば、これは一重に明君の功績なのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■八章については、同じような言葉が何度も使われているので、よく読んでいただかないと意味がわからないかもしれない。天下を取る者に関しては、敢えて命令などしなくても、民衆が勝手に動くのである。ここまでの荀子の内容を理解している人なら意味がわかっていただけると思う。

■九章については、現代にあてはめると面白いと思う。中国や朝鮮半島などは、間違いなく乱れた国であると言えよう。現在は民主主義であるから、その国の君主、明君、暗君(明主、闇主)はその国の国民であると言えよう。一概に、どちらかにすっかり当てはまるということはないだろうが、この荀子の判断基準を用いれば、興味深い考察結果が得られそうだ。

■どちらの章の内容も、会社とか小さい組織とか個人にもあてはまることであると思う。この基準を使っていろいろなものを測ってみると面白いかもしれない。