87.荀子 現代語訳 富国第十 七章

七章

 だから、教えることもしないで罰することをしていたら、刑が増えるばかりで悪いことが減ることはなく、教えていても罰することをしないと、ずるい民衆はこりずに悪事を行う。しかし、罰を行っても賞を与えなかったら、勤勉な民衆でも勉めることはない。だが、賞罰両方があったとしても、それにある一定の法則と人々が共感できる道理がないのなら、下の者は疑うばかりで陰険に腹積もりばかりするようになり、百姓がまとまることはない。

 だから、先王は、礼義(道理を守るための規範:法律と倫理)を明らかに制定して人々をまとめ、真心と嘘偽りのない心で人々を愛し、賢者を尊んで能力者を使って人々の序列を定め、爵録や表彰によってさらにこれを強固にして、事業は時期を違わず労役は必要最低限にすることでこれを調整し、天の川が地を覆うように民衆を養うことは、赤子の世話をするかのようである。

 このようであるから、ずるいことも邪悪なことも起こらず、盗賊も現れることなく、善を好む人は安心して勤勉に励むことができる。これはどうしてか。それは、その聖王の道が立派で堅固であり、政令も安定していてその基準もはっきりとしているからである。だからこのように言われるのだ。上が一であるのなら下も一となり、上が二であるならば下も二となる。これを例えるなら、草木の枝葉は必ずその幹に準じるようなことなのだと。(草木の枝葉は必ず本に類す)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■草木の枝葉は必ず本に類す、とは当たり前すぎて和訳するのが難しかったのだけど、草木の枝や葉というものは、必ずその植物の種類と同じものである。このように、何事も本流に影響されるのであろう。