なぜ為替が必要なのか

なぜ為替があるのか分かってしまった。と言っても、経済学では当たり前の事なのかもしれない。しかし、私にとっては大発見であった。

私は、為替というものに、今日まですごい疑問を抱いていた。なぜなら、これほど不公平なものはないからである。例えば、私が一日頑張って汗水たらして肉体労働をしたとする。そして、ちょうどそのころ、フィリピンの農村部にいる青年も私と同じような仕事をしていたとする。こういった場合、私とこの青年の「労働」は、「全く同じもの」である。私にしろ、このフィリピンの青年にしろ、同じような仕事を、同じような力の入れ加減で、同じような労力を用いてやったのである。そこに生まれる「労働」の価値自体は同じはずである。

なのに、私が手にする日当は、為替があることによって、また日本とフィリピンとの通貨が違うことによって、彼の十倍以上となるのである。どうして、同じものに払われるはずの対価が、実際として十倍以上もかけ離れたものとなってしまうのか。私からすればいいことであるが、彼からすると腹立たしいことであろう。なぜなら、そこに払われた労力は同じなのであるから。なのに、労働自体は同じであるのに、通貨が違うということによって、また為替相場制があることによって、十倍以上の差がついてしまうのである。これを不公平と言わずして何を不公平と言うのか?

だが、このような不公平が生まれることは、致し方ないことであったのだ。

どうしてかと言うと、もし仮に、私がこのフィリピンの青年と同じ対価しか得られなかったとしたら、日本は、とんでもない格差のある国になってしまうからである。

先に結論を言ってしまうと、為替は国内での労働の質を平均化し、その国の国内での貧富の差をなくすために必要なのである。

日本で行われる労働は、高い技術力に基づいた、事実として質の高い労働である。だから、当然、その労働は高く売れる。しかし、こうした質の高い労働をできる人間はほんの一握りしかいない。だけど、このほんの一握りの人間が居ることで、日本では質の高い労働を行うことができる。そうではあるけれど、このほんの一握りの人間に払われる賃金と、そのほか単純労働しかできない人間に払われる賃金が、公平に判断されてしまったら、年収でも凡そ10倍以上の差が開いてしまうであろう。

例えを入れると、為替が無かった場合、つまり、世界中が統一通貨であった場合に、すごい儲かっているコンビニの店長が手にする賃金が、月に100万だったとする。これに対して、トヨタの少し高等な技術を扱う技術者は、本来なら、1000万くらいの賃金を手にするべきであるということである。しかし、実際には為替があって、これが国内で平均化されているから、コンビニ店長が100万としたら、その技術者はいいとこ50万しか賃金を得ることができない。

これが他でもない、為替の力であり、通貨に境界を設けることによる国内賃金平均化であるのだ。

私が思うに、ユーロこそがこの原理を分かってなかった良い例で、技術と質の高い労働が集約しているドイツが富み、そういったものに乏しいイタリアやスペインやキプロスギリシアは貧しくなってしまった。これは、質がかけ離れた労働が行われている国家間で、通貨を統一したことによる悪影響に他ならない。

だから、為替というものは、国家間での労働への対価の不均衡を敢えて作ることにより、国内での個人での不均衡を減らすシステムであったのだ。

こういったわけだから、世界統一通貨が導入されるとすれば、国家間で労働の質の不均衡が起こらない状態にならなければならない。そして、そうなるためには、世界各国で同じ水準の教育が受けられなければならず、治安も同じ位の水準にならなければならない。逆にそのような状況に近付けば近付くほど、通貨が統合されていくこととなるだろう。この私の理論が正しいとすれば、日本とアメリカにおいては、通貨が統一されてもさほど問題はないのではないか。もしかしたら、TPPとかは、こういった通貨統合の前段階となるのかもしれない。