妄想について

妄想にはいろいろ種類があることが分かってきた。

妄想にはいろいろな種類があるけれど、それら全ての妄想の原因は、願望として間違いないだろう。以下、私の知る範囲で妄想を分類しながら、それが願望を原因としていることを解説し、妄想について本質的にまとめたいと思う。

というか、ちょっと後の方は考えながら書いたため、意味が難しくなっていて理解が難しいので、先に結論を述べておこうと思う。

妄想というものは、「ないことをあるとする」と「あることをないとする」の二種類しかない。ここでこの単純な言葉だけを用いたのには理由がある。それは後の方に書かれているのだけど、現実の区切りをどこにするかで、妄想の定義がかなりややこしくなるからである。

つまり、妄想と無知との関係をどのように捉えるか、で、ほとんど全ての人が妄想をしているということになるのである。どういったことかと言うと、現実が仏しか知ることのできないようなものであった場合、ほとんどの人は仏の足元にも及ばない現実の認識しかできないから、今認識していると思っていることが全部(自分ではこのようだと思っているだけに過ぎない)妄想ということになってしまう。これに反して、妄想を個人の範囲内だけのものと捉えるのならば、願望に起因される以下の1.と2.だけによって分類することができるだろう。

そうしてみると、妄想は「あることをないとする妄想」と「ないことをあるとする妄想」の場合に加えて、「願望によって起こる妄想」(個人の能力の制限内で現実として認識可能な範囲で起こる妄想)と「無知によって起こる妄想」(個人の能力の制限内で現実として認識不可能な範囲で起きていると仮定される妄想)として分類することができることになるだろう。つまり、願望によって起こされる妄想でなければ、他は全て無知によって起こる妄想でしかあり得ないのである。

だから、これらの組み合わせで、
A.願望によってあることをないとする妄想
B.願望によってないことをあるとする妄想
C.無知によってあることをないとする妄想
D.無知によってないことをあるとする妄想
が妄想の全てということになろう。

妄想は現実を無知に変換していくものであると考えることもできるし、願望が起こること自体が無知であるのかどうかという議論もあるのであるが、このことについては今回は考えないでおこうと思う。というのも、実益においては、その妄想の原因が「願望によるものか、無知によるものか」ということと、その妄想は具体的に「あることをないとしているのか、ないことをあるとしているのか」ということに留意することが大事だからである。

(以下は主にAとBについて考えた論考、結局これを考えているうちに、最も真実に近いと思われる上の結果が出たので、メモ程度に残しておくこととする)

1.現実でない願望を実現したかのような妄想

最も単純な妄想である。こうしたい、ああなりたい、こんなことしたい、こうなったらいいな、とか思っているうちに、これらの空想でしかない願望が心を支配してしまう場合である。こうしたい、ああなりたい、こんなことしたい、こうなったらいいな、とか思っているだけのうちは、これは願望であって、さほど悪いことでもないと思う。荀子も繰り返し述べているように、目耳鼻口身意が、美と安逸を求めるのは、人間普遍の真理というものであり、これを思うまでは悪いことではないのである。ただし、それはこれが願望であるということを認識して、現実と願望の違いを弁えているうちだけであると言えよう。だから、これは現実にないことをあるとする妄想である。

2.現実に欠落を作る妄想

これは一般的には挫折とか言われるものに近いかもしれない。こうしたい、ああなりたい、こんなことしたい、こうなったらいいな、と思っていて、その願望がある程度以上強い場合に起こり得る。このような状況下で、その願望を打ち消すような事実を受け入れる他ない状況が生まれ、願望と現実までもが全て打ち消されてしまったかのように錯覚する妄想のことである。願望がある程度強い必要性があるのは、一種のギャップ、大きな溝というものが無ければ、錯覚が起こり得ないからである。よって、願望と現実に大きな差異があるとき、現実としてある部分さえも欠落していると思うことである。まとめるならば、現実としてはあることをないとする妄想である。

(3.被害妄想)

被害妄想とは、事実として自分は何者からも害されていないのに、あたかも自分が何者かから害されているとする妄想である。この妄想の原因は複雑と言える。括弧で表示しているのは、実は、この妄想もことが少し複雑なだけで1.の妄想と同じだからである。この被害妄想が起こる時、彼には強い願望というものが既に存在している。被害妄想とは、この強い願望を守るための妄想に過ぎない。強い願望が存在していて、この願望が妄想となっていて、現実としてこの妄想に足りない部分をどうしても受け入れなければならない状況になったとき、現実として欠落している部分を補完するのが被害妄想である。だから、願望が実現したかのような妄想や願望自体が主体で、これに付随して足りない部分に、あたかも害があるかのような妄想をしているのである。だから、現実としてないことをあるとする妄想である。

(4.現実に欠落を作っていても妄想でない場合)

これは、単に「その現実を知らない」という場合である。現実を知らなかったり、現実を理解していなくて、現実になんらかの認識の欠落が生まれているのならば、これは「現実に反することを強く心に描く」という妄想の定義からそもそも外れるものとなって、これは妄想ではないことになる。また、無知によって現実への認識にずれが生じているとすると、それは、誰かと誰かの認識の差というものであり、認識の差は、相対的なものであるから、個人一人でも起こる得る妄想とは全く別のものとなる。しかし、個人一人と神や法(ダルマ)とかいった絶対的なものとを相対するのならば、この場合も妄想と言いうることができる。これが無明とか言われるものかもしれない。つまり、無知による絶対との乖離によって生まれる妄想と言いうることもできる。