95.荀子 現代語訳 王覇第十一 三〜五章

三章

 彼の国を保持するということは、独力でできるようなことではない。そうであるならば、国の強さと堅固さと国の栄辱というものは、宰相の選び方にあるのだ。

 自分自身も能力者で宰相も能力者であるならば、このような者は王者となることができるだろう。自分自身に能力がなくとも、そのことを自覚して恐れおののいて能力者を求めるのならば、このような者は強くあることはできるだろう。自分自身に能力がないのに、そのことを自覚することもせず恐れおののいて能力者を求めることも知らず、口達者で近づいてきては機嫌をとっておもねりへりくだる者だけを用いるならば、このような者は立場が危うくなって国も削られ、その行いを改めることがないならば亡びることとなるだろう。

四章

 国というものは、これを巨用すればその効果もすなわち大であり、小用すればその効果も小というものである。大なることが極められることとなれば王者となり、小なることが極められることとなれば亡びることとなり、小と巨が入り混じり行ったり来たりするようならなんとか存立することができる。

 国を巨用するとは、義を先にして利を後にして、親しいのか疎遠なのか貴いのか賤しいのかといったことを考慮に入れないで、ただ誠が有ることと能力が有ることを求めることであり、このことを巨用すると言う。

 国を小用するとは、理を先にして義を後にして、是非や曲直や利害を考慮することなく、ただ口達者に近づいてきては機嫌をとっておもねりへりくだる者だけを求めることであり、このことを小用すると言う。

 国を巨用するとはかようなことであり、国を小用するとはこういったことであり、小と巨が入り混じり行ったり来たりするとはある時はかようでありある時はこのようであるということである。

 だから、純粋であるならば王者であり、雑駁であるならば覇者であり、皆無であるのなら亡ぶこととなる。とはこのことを言っているのだ。

五章

 国は、礼がないのならば正しいということはなない。礼が国を正すことを例えてみると、秤で重さを測るようなものであり、定規で直線を引くようなものであり、コンパスで円を描くようなことである。

 礼が既に置かれているのなら、人はこれを欺くことはできない。詩に「霜雪は 一面を覆い 日月は 光明で照らす それをするなら存立し しないのならば滅亡す」とあるのはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■ここでも触れられているし、非十二子篇で詳しく述べられているが、この世の中でもっとも恐れるべき姦悪は、口達者・便佞(べんねい)というものである。暴虐の人は、その人が生まれながらにしてよほどの権力を有していない限り、人に実害を加えることは少ない。例えば、プロレスラーのような立派な体格を備えた暴虐の人がいたとしても、何かしたらすぐに警察に捕まるだけである。だが、口達者な人は、その暴虐の欲求を叶えるために、その口を使って人を動かす。さらには、自分がその暴虐を引き起こしたにも関わらず、口達者で逃げてしまう。そしてまた、新たな暴虐を世に巻き起こすこととなる。こういったわけであるから、口達者・便佞こそが、姦悪であることこの上ないのであり、自分のためにも社会のためにも最も気をつけねばならないのである。