94.荀子 現代語訳 王覇第十一 二章
二章
国は天下の大器というべきものである。この大器のために善い場所を選んで、そうしてからこれをそこに置かなければならない、険しい場所にそれを置けば危険にさらされることとなる。次にはこの大器のために善い道を選んで、その道を通らなければならない、ほこりっぽいところに寄り道すれば口が塞がってしまう。危険になって塞がってしまえば亡びることとなるだろう。そして、国が置かれるとは、ただ建国されて諸侯が立てられるということではない。
では、どんな法を道として、誰とそれをすべきなのか。
王者の法を道として王者の人とともに国を治めるならば王たり、覇者の法を道として覇者の人とともに国を治めるならば覇たり、亡国の法を道として亡国の人とともに国を治めれば亡ぶこととなる。この三つは、明主が慎重に選ぶものであって、仁人が務めて明らかにしようとすることである。そもそも、国というものは重い荷物であり、長い間にわたる積み上げと我慢強い保持がなければ、国として確立することはできない。また、国とは時代によって少しずつ変化していくべきであるけど、これは坦々と変化するものであって急に一変するものではない。例えば、着なれていない服を着ると、その服に合わせて少しずつ歩き方が変わっていくようなものである。
しかし、人間には寿命があって、生きられる時間には限りがある。なのに、どうして千年の国を当たり前のように保有することができるのか。
それは、千歳の信法の助けを得て国を保持し、千歳の信士とともに国を治めるからである。
だが、人間の寿命は長くて百年である。なのにどうして千歳の信士なるものが存在するのか。
千歳の法によって自分の身を保つ者が千歳の信士である。だから、礼義を積む君子と国を治めるならば王者となり、誠実で正直な士とともに国を治めるならば覇者となり、権謀術数の人と国を治めるならば亡ぶこととなる。この三つは、明主が慎重に選ぶものであって、仁人が務めて明らかにしようとすることである。善くこれを選ぶのならば人を制することとなり、善くこれを選ぶことができないならば人から制せられることとなる。
まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885
解説及び感想
■千歳の信法と千歳の信士は、敢えてわかりやすくせずに原文のままにしておいた。千年の長きにわたって変わらない法と、千年の長きを生きる人とは、一体どういった人なのか考えてみていただきたい。