93.荀子 現代語訳 王覇第十一 一章-後

 徳の至りに達するほどでなく、義も平定されたわけではないものの、天下の道理が集まっていて、刑罰と賞、認可や禁止令といったようなものが天下で信じられるものであり、臣下は皆な信じて約束を交わすことをためらわず、政令が発せられた後ならば、そのことによって自分が不利を被るようなことがあっても民衆を欺くことがなく、盟約が結ばれているのなら、そのことによって自分が不利を被るようなことがあっても相手国を欺くことがない。

 このようであるのならば、兵隊も強くて城は固くて敵国も畏れをなすようになり、国は一つになり義の極みは明らかとなって、他国もこれを信じ、たとえ辺境の国であってもその武威は天下を動かすほどとなるであろう。春秋の五覇がこれである。

 正しい政治の教えに則るわけではなく、礼義が致されるわけでなく、文化と文明がその極致にあるわけでなく、人の心を服すわけではなく、天下の計略に腐心して、事業の難易と軽重をよく慮り、慎んで蓄積をして軍備を整え、歯がかみ合うように上下が信じい、このため、天下には進んでこの国と敵対しようという者がない。

 このような状態を保持することができたから、斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉のコウリョ、越の句践などは、辺境の国であったのに、その武威は天下を動かして、その強さが他の由緒正しい国々を危うくするほどになったことには他の理由などない。それは、信頼関係が結ばれていたからである。これこそが、信頼関係が築ければ、覇となることができると言った理由である。

 国を挙げて利益を求めることを称揚し、義理を重んじて信頼関係を築くことを務めないで、ただ利益ばかりを求め、内では民衆を騙すことをためらわずに小利を求め、外は他国を欺くことを当たり前として大利を求め、自分自身を省みて修正することを好まないで、口やかましい様子で人に有ることばかりを求める。

 このようであるのならば、臣下や百姓も、上の目を盗んで騙すことばかりを考えるようになる。上はその下を騙そうとして、下もその上を騙そうとするのならば、これは上下が離ればなれになる状態である。このようになれば、敵国はこの国を軽んじるようになり、その他の国もこの国を疑うこととなって、権謀術数が日々に行われることになり、こうしてこの国は削られて危うくなる状態を免れることはできなくなり、これがさらに極地まで達すると亡びることとなってしまう。斉の閔王と薛公とはこれであった。

 彼らは、軍事的強さばかりを求めて礼義を治めるわけではなく、正しい政治の教えに則るわけでもなく、天下を一つにするわけでもなく、綿々と連ねて常に敵国と綱引きをして、外側に拡張することばかりを務めとした。こういったわけであるから、その強さだけなら、南では楚を破るほどであり、西では秦を退けるほどであり、北では燕を破るほどであり、中では宋に引けを取らないほどであったのに、燕と趙がともに攻めてきたら、枯葉が払われるときのようにあっけなくやられてしまった。

 こうして、その身は死んで国は亡んで天下の殺戮者とあだ名され、後世で悪と言えばこの人たちのことから考える。このようになったのには他の理由などない。それは、礼義を頼りとしないで、権謀術数を頼りとしたからである。これが権謀術数が立つならば国が亡ぶと言った理由である。

 この三つのことは、明君が慎んで選びとるものであって、仁人が明らかにしようとするところのものである。これを善く選ぶことができれば人を制し、善く選ばないのなら人から制せられることとなる。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び考察

■これは、ただ国だけでなく会社とかでも…(いつも言っていることなので省略)

■覇者と王者の違いで、一つ気がついたことがあった。王者は自分自身を見つめて自分自身を治めることを第一とし、覇者はまわりの状況に合わせて自分の立場を良くすることを第一とし、亡者は自分を省みずまわりの状況すらも顧みないでただ自分の欲を達することだけを第一とする。何を第一とするか、これによって、人の格も決まるし、国の格も決まるし、会社とかの組織の格も決まる。ということだろう。そして、最も格が高いやり方は、どの場合においても、修身徳行思慮愛智といった己に付随するものなのである。