92.荀子 現代語訳 王覇第十一 一章-前

王覇第十一

 国というものは天下に利益をもたらすためのものであり、君主というものは天下の利益を促すためのものである。(国なる者は天下の利用なり。人主なる者は天下の利勢なり)

 君主が正しい道理にのっとって国を治めるのならば、大安であり大栄であり積美の源となることもできようが、道理にのっとることをしないで国を治めるのならば、大きな危険と大きな害が訪れることとなろう。このような状態では、いかに国を保持していようとも、はっきり言って、まだ無いほうがましというものである。この極みとしては、普通の人として生活しようとしてもそれができなくなってしまうのである。斉のビン王と宋の献王とはまさにこれであった。

 だから、君主は天下の利益を促す者ではあるけれど、自分自身が安心することはなかなかできないものであり、自分自身を安心させるものがあるとすればそれは必ず道にのっとることである。この故に、国家を治める者は、義を立てることができれば王となり、信頼を得ることができれば覇となり、権謀を立てるようなら亡んでしまうこととなる。この三つのことは、明主が謹慎して選ぶものであって、仁人が勉めて明らかにしようとすることなのである。

 国を挙げて礼義を称揚させて一切の害を残すことなく、一つ義に反することを行い、一人の無罪の者を殺すようなことをして、天下を取るような事は仁人のしないことである。(いかに礼義といえど、これで害を受けない者がないわけではない、だから、仁人は必ず利と害を同時に見て、犠牲なく全て円く治めるというような妄想は抱かない。しかし、その行われることは義に反することでなく、無罪の人を殺すようなことではない)このように、多少の犠牲を省みずに、しっかりとした有様で固く国を保持するのである。これをともに為す者は義士である。また、このために国家の刑法に記されていることは全て義法である。そして、これらのものを一つに束ねて先頭から引っ張るものは義志なのである。

 このようであるのならば、下が上を仰ぐのにも義が用いられるようになり、これこそが極み(綦:とんがりコーンの大きいのをひもでぐるぐる巻きにしたもの的なイメージと思われる)の定まりというものである。極みが定まれば国が定まり、国が定まれば天下も定まる。

 仲尼は針の先ほどの土地も持っていなかったのに、義を普段の自分の心持に裏表なく反映させ、さらにこの義を身につけて行って、これを言語にして著したのであるけれど、これが平定するに及んで、天下に隠れることなく名声が後世にまで鳴り響いているのである。

 今の諸侯が、義を普段の心持に裏表なく反映させ、義を法則や度量に反映させて政治として実行し、貴賤の別と殺生にも申し合わせて、首尾一貫とした様子で終始を一つのものとしたとしよう。もしもこのようになるのならば、名声が天地の間に開かれ発せられること、日月雷霆に劣らぬこととなるだろう。

 だから言うのだ。国にって義が整えられるのならば一日にして明白になると。湯王や武王はこれである。湯王も武王も始めは百里の地から勃興したに過ぎないのに、天下は一つとなって、諸侯は臣下となって、通達の類に従属しないところがなかったことには一つの理由しかない。それは、義を平定したからである。(義を済せしを以てなり。済:ぼこぼこのものを平らかにならすこと)これこそが義が立てば王であると言った理由である。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■礼義の害を見るという部分は、岩波文庫のものとはだいぶ違う訳になっている。多くの人は勘違いしているだろうが、犠牲のない礼義などない。というか、政治と言う概念においては、必ず犠牲がある。犠牲を伴わないのは宗教と言う概念においてだけである。なぜならば、政治とは、社会の救済が目的であり、いかに少ない犠牲で多くを助けるかであり、不均衡を均衡にするものであり、悪と善をうまく混ぜるものであるからである。これに対して宗教は、個人の救済が目的なのである。その目的と本質において全くの別物である。ところで、儒学とは宗教ではない、朱子学はこういった部分を省いた儒教なのかもしれぬが、少なくとも儒学者である荀子はこの限りではない。