101.荀子 現代語訳 王覇第十一 十二章

十二章

 上は下の者を愛さないということはなく、さらに下の人を制するためには礼を用いて、上が下に接する態度は赤子に臨むかのようである。政令や制度を施行して下の人である百姓に接する要点は、筋に合わないことや理に適わないことが、髪の毛の先ほどでもあるのならば、孤独な人にでも決してこれを加えない。こういったわけであるから、下が上に親しんで喜ぶことは父母に対してのもののようで、殺すことはあるかもしれないが、必ず自分の善に同じるようにさせるのである。

 君臣上下貴賤長幼、庶民の皆がこれを尊く正しいこととして実行しないということはなく、このようになってから皆が自らを省みて自分の分限について慎み慮ることとなる。これこそが、百王において同一のことであり、礼法の基軸というものである。

 この礼法の基軸ができてから、農夫は田を分けて耕し、商人は商品を分けて商売し、職人は種類を分けて務め、大臣は分野を分けて話を聴き、建国諸侯の君主は土地を分けて守り、三公は全てを統括して議論するならば、天子は腕組みをしているだけでよい。内外全てのことについてこのようにするのならば、天下はうまく平均されて、治められないということはない。これこそが、百王において同一のことであり、礼の大分というものである。

 日にちを重ねて細かいことについて治め、物事を計量してうまく利用し、衣服に制度を設けて、部屋数についての節度を考え、雇い人を多く使って、儀式などの器物に等級を付けて、こういったことを全てにあまねく施して、どんな小さなものでどんな大きなものでも、これらの制度によって規定されないものはないようにしてから、物事を行うようなことは、役人の仕事なのである。大君子の仕事と数えるには到底及ばないものである。

 この故に、人の君主たる者は、尊ぶべき正しいことを政庁に立てから事に当たり、百事を統括する人が誠に仁人であるならば、身は安逸であるのに国は治まり、功績は大きくなって名声も美しくなり、上では王となることができて、下では最低でも覇者となることがでる。尊ぶべき正しいことを政庁に立てたつもりがそれが当を得ていなくて、百事を統括している人が仁人でもないならば、身は疲れ果てるばかりで国は乱れ、功績は挙がらないばかりか全てが廃れていき、名声も辱めを受けるばかりで、自分の家のお社さえも危ういものとなってしまうだろう。これこそが、人に君主たる者の枢機(最も肝要で分かれ道となること)というものである。

 だから、一人に対して当を得ることができるならば天下を取ることもでき、一人に対して当を失してしまうようなら自分の家のお社さえ存続が危うくなる。一人に対して当を得ることもできないのに、千人百人にこれをうまくするというようなことは、理論上、土台無理な話である。一人に当を得るだけでいいのだから、何か苦労するということがあるだろうか。衣装を着ているだけでも天下を定めることもできるのである。

 この故に、湯王は伊尹を用いて、文王は呂尚を用いて、成王は周公を用いたのである。これの低い者は春秋の五覇であった。斉の桓公は自分の宮殿で贅沢三昧をして遊んでばかりで、天下の誰も彼の事を修まっているなどとは言わなかったが、諸侯を糾合して天下を一つにして正し、五覇でも最も盛んなものとなったのには、他の理由などない。つまり、管仲に政治を全て任せるべきことを知っていたからである。これこそが、人の君主たる者の要所というものである。このために知者は自分の力を社会に反映できるようになって、国の功名が極めて大きくなるのである。これを捨てて何をしろと言うのか。

 だから、歴史上の人物で大功名あるような人物は、必ずこのことを自分の道とした者なのである。そういうわけであるから孔子はこのように言ったのだ。「知者の知というものは、そもそも多いものであるに、これによって少ないものを守る。考えが及ばないということがあるだろうか。これに対して、愚者の知とは、そもそも少ないものであるのに、これによって多いものを守る。狂っていないということにできるだろうか。」(知者の知は固より以て多きに又以て少なきを守る、能く察なること無からんや。愚者の知は固より以て少なきに又以て多きを守る、能く狂なること無からんや。)と。これはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■多い知によって少ないものを守る。とはその守るべきことを守ることである。そして、守るべきことを守るためには、守るべきことを知る必要があり、守るべきことを知るためには多くを知る必要があるのである。「多くの知によって少を守る」とは、至言、妙言というべきものであろう。