24.学問のすすめ 現代語訳 五編 第八・九段落

第八段落

 今まで論じたことによって考えてみると、国の文明は上政府から起こるものではないし、かと言って下人民から生ずるものでもない。必ずその中間から興って皆の向かうべきところを示し、政府と並び立ってから、そうして始めて成功を期することができるのである。

 西洋諸国の歴史を考えてみると、商売工業の道には、一つも政府の創造したものはなく、そのもとは皆中等の地位にある学者が智恵と工夫をこらして成されたものである。蒸気機関はワットの発明であり、鉄道はステフェンソンの工夫であり、始めて経済の法則を論じて商売の方法を一変したのはアダムスミスの功である。

 これらの諸大家はいわゆる「ミッズルカラッス(middle class)」というものであって、国の執政というわけでなく、また力仕事ばかりしている小民でもなくて、まさに国人の中等に位して、知力でもって一世を指揮した者である。

 その工夫や発明が、まず一人の心に出来上がったならば、私立の社友を結んでこれを公のものとして実際に施す。そして、これを益々盛大なものとするのなら、人民無量の幸福を万世に残すことができる。

 この時代に当たって、政府の義務は、ただその事を妨げないようにして、適宜行われる程度で、人心の向かうところを察しては、それを保護することである。だから、文明の事を行うのは私立の人間なのであって、その文明を護るのは政府なのである。

 このようなことであるから、一国の人民はあたかもその国の文明を私有しているかのようにし、外国とこれを競いこれを争い、外国のこれを羨んだりこれを誇ったりして、国に一つの美事があったのなら全国の人民は手を叩いてこれを喜び、ただ他国に先を越されることを恐れるのである。

 こうして、文明の事物ことごとく全てが、人民の気力を増すためのものとなり、一事一物も国の独立を助けないというものはない。しかし、本来このようにあるべき事情が、我が国では全く逆になっていると言っても過言ではない。

第九段落

 今わが国で、「ミッヅルカラッス」の地位に居て、文明を唱えて国の独立を維持すべき者はただ一種の学者と言われる人達だけである。しかし、この学者というのが、時勢についての目の付けどころが高くないのか、それとも国を心配すること自身のことを心配するように切ではないのか、世の中の気風に酔ってただひたすらに政府に頼って何か事を成そうと思っているのか、ほとんど皆、その中等の位に居ようと思わないで役人となり、こまごました事務仕事をして、いたずらに心と体を疲労させている。その挙動を見ていると笑うべきものが多いのではあるのだけど、自分でこれに甘んじて人もこれを怪しまないで、甚だしい者ではこのことについて、野に残っている賢才がいないなどと言って喜んでいる。

 これは時勢でそうなってしまったことで、その罪は一個人にないとはいうものの、国のためには一大災難と言うべきである。文明を養い成すべき任に当たるべき学者の、その精神が日に衰えていくのを傍観して、これを心配する者がいないということは、実に長いためいきをついてしまうことであり、また嘆き悲しむべきことである。

 独りこの慶応義塾の社中では、なんとかこの災難を免れて、数年独立の名を失わず、独立の塾に居て独立の気を養い、その目標とするところは全国の独立を維持するというこの一事にある。そうではあるのだけど、時勢が世を制するこの力は、あたかも急流のようであり大風のようである。この勢いに立ち向かって屹立することは、もとより簡単なことではなく、尋常でない勇力がなければ、知らないうちに流されて気が付かないうちになびいて、ややもすれば、そこに立っていられなく恐れもある。

 そもそも、人の勇力というものは、ただ読書のみで得られるものではない。読書は学問の術であり、学問は事を行うための術である。実地を経験して事に慣れることなくして、勇力が生ずることなどない。

 我が社中で既にその術を得た者は、貧苦を忍んで艱難をも恐れず、ここで得た知見を文明の事実に施さなければならない。その種類は枚挙して数えきれないほどもある。

 商売をしないわけにはいかない、法律を議論しないわけにはいかない、工業を起こさないわけにはいかない、農業を勧めないわけにはいかない、著書訳術新聞などの出版もある。

 これら文明の事件は、ことごく取って自分の私有として、国民に先んじ政府と相助けて、官の力と私の力と互いに平均して一国全体の力を増し、かの薄弱である独立を動くべからざる基礎として、外国と争っては毛ほども譲らず、今から数十の新年を経て今を振り返り、今現在の有様を思い出して、今日、小さな独立があったことを喜ぶのでなくて、あの独立は小さなものだったと、笑い飛ばすほどになれるのなら、これはなんとも愉快なことではないか。学者にはしっかりとその方向を定めて目的とするところが必要なのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■ここで福沢が述べていることは、もう現代では確立したことではないかと思う。そういった意味でも、学問のすすめは、まごうことなき「時代遅れ」の書物であろう。だが、どのような経緯で現在に至っているのか知るために、これほど貴重な書物はないだろうし、まだ、確立していない部分もある。とは思う。

■現代新たに必要なことは「責任感」でないかと思い始めた。責任は独立に含まれているけど、その責任より少し広い範囲での責任、ダライラマの言う「universal responsibility」:普遍的責任のことである。これは、まだ私もしっかりと知っているわけではないけど、この地球に、この宇宙に生まれた責任と説明されていたと思う。独立が分かったら、責任について研究してみよう。


要約