31.学問のすすめ 現代語訳 七編 第三・四段落

第三段落

 第二 主人の身分で論ずれば一国の人民は政府でもある。

 それが何故かというと、一国中の人民が全員政治をするわけではないのだから、政府というものを作ってこれに国政を任せ、人民の代表として事務を取り扱わせるという約束を定めているからである。だから、人民は、家元であり、主人である。政府は、代理人であり、支配人である。

 例えば、先の商社で選ばれた十人の支配人が政府で、残りの九十人の社員が人民であるようなものである。この九十人の社員は自分で事務を取り扱うことはないといっても、自分の代理として十人の者に事を任せたのであるから、自分の身分を尋ねてみればこれを商社の主人と言わざるを得ない。

 また、彼の十人の支配人は現在のことを取り扱っているとはいえ、もとは社員の頼みを受けてその意向に従って事を行うと約束した者であるからには、その実際は私ごとでなくて商社の公務を勤める者である。

 今世間で、政府に関わることを公務や公用と言うのだけど、その字の由来を訪ねてみると、政府のことは役人の私事でなくて、国民の代表として一国を支配する公の事務という意味である。

第四段落

 このような次第で、政府は人民の委任を引き受け、その約束に従って一国の人を貴賤上下の区別なくいずれにも権利を偏らせてはならないし、法を正しくし罰は必ず与えて一点の不公平もあってはならない。例えば、今ここに賊の一群があって、人の家に乱入しようとする時、政府がこれを見ながらもそれをどうすることもできなかったのらば、政府もその賊の徒党と言っても良い。

 政府がもしも国法で定めてある趣意に達することができず、人民が損失を被るようなことがあれば、それが大ごとなのか小さいことなのか、今のことなのか昔のことなのかは問わずに、必ずこれを償わなければならない。例えば、役人の不行き届きで国内の人か外国人に損害を与え、三万円の補償金を払うことになったとする。しかし、政府にはそもそもお金がないのであって、その補償金の出所はかならず人民となる。この三万円を日本国の人口三千万人に割りつけると一人あたりは十文になる。だが、役人の不行き届きが十回もあると、人民の出費は一人当たり百文となり、もしも一家五人なら五百文になる。田舎の小百姓の一家に五百文の銭があれば、家族そろっておいしい御馳走を食べて楽しいひと時が過ごせるはずであるのに、ただ役人の不行き届きによって、全日本の罪のない小民の楽しいひと時が奪われてしまうとはなんと気の毒な事であろうか。

 人民の身であれば、このような馬鹿らしい金は出さなくても良いようであるけども、いかんせん、その人民は国の家元であり主人なのであって、最初から政府にこの国を任せて事務を取り扱わせる約束をして、損得ともに家元で引き受けるのが道理であるからには、ただ金を失った時だけ役人の不調法をかれこれと議論してはならない。故に人民たるものは平生からしっかりと注意して、政府の処置を見て安心できないと思うならば、深切にこれを告げて遠慮なく穏やかに論じるべきである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■当時の一円は現在の二万円程度の価値らしい。どうも一円=千文ということのようだ。だから、五百文は一万円くらいということになる。確かにバカバカしい。

■だが、このようなことは、普段からよくある話で、薬害エイズとか、アスベストとか、そういった国の法に問題があったことによって損害賠償を支払うニュースは、全部このことを指しているのである。

■政府が国民の代表(原文では名代)であるということは、現在ではかなり定着していると思う。しかし、これが政治家にばかり向けられていることについては、以前から述べているようにおかしいと思わなければならない。警察も、国土交通省も、財務省も、県庁や市役所も、またそこで働いている個々人、個々の公務員が全て、実は私たちの代表なのである。だから、これらの機関を民意に沿って動かすために、国会議員や地方首長、地方議員を選挙で選んでいるわけだ。しかし、その選ばれた人が言っていることとやっていることが違っていたり、言っていることをやろうとはしているのだけど、その他の“本来なら代表であるべき人達”によってその行動が疎外されていると言ったことは実に由々しき問題であると思う。民主主義が機能しないとはこのことである。