パイドンを読んでいて3

 今日、パイドンを読んでいて、「プラトンは極端だな」と思った。というのも、魂と肉体を完全に分ける議論は、やはり極端と言わざるを得ないからである。だが、それはそれで完結的な論証ができているわけであって、途中で肉体と魂とのハーモニー(調和)についての議論でも、魂と肉体の調和による生を完全否定しており、またその論証が間違っているとは思えないのである。

 そこで、私が思いついたのは、この極端を中和する作業を、その先に述べてある「イデア論」で中和するのかと思っていた。そのプラトンの真意は、当たり前のように私よりプラトンの方が賢いことによってわからないのだけど、少なくともイデア論が何であるかは、だいぶわかった。

 以前、国家を読んだのと、その他のいろいろな情報から、「イデア」とはこんなもんかな、程度の認識を持っていたのだけど、今日、「イデア」が何なのかだいぶわかった気がした。パイドンを読まずして、イデアは語れないなとも思った。

 イデアとは、やはり、ロゴス(この前は精神世界と言ったがそれは少し不適切であった)の方向の高次元に存在するもの一般を指しているようで、「大」そのものや、「小」そのもの、そして「死」そのもの、「生」そのものという概念も出てきた。(ヘーゲルの概念もイデアの発展型だ)このイデア論はとても興味深いと思った。この議論の中で、何か、近代哲学とほぼ同じ手法が用いられていて、プラトンは偉大だなと思った。

 それで、恐らくもう一度パイドンを読んで、プラトンの言いたいことをさらに理解する予定なのだけど、このイデア論を読んでいるうちに、プラトンは情熱的なで情側の人だなと思った。というのも、イデアを発見するためには、多くの実例から読みとるということより、こうもっと情熱的に、感情的に一点集中的に求めなければならないような気がしたからだ。

 これは、私の空論、絶対的反対の中立論、陰陽論、二律背反論みたいなものとも深く関わってくる話で、わかるように書こうと思うと、あまりに長くなるので書けないのだけど、要は、陰と陽とがあって、無限の無量と存在しない無量とがあってものごとが存在するように、そのように、極端を極めた先にある中庸というものを求める過程での極のどちらかでの現象とも思われるわけである。

 まあ、いずれにせよ、完全に理解するのは一生かかっても難しいのかもしれないが、もう少しパイドンを読みたいので読むことにしよう。