ヘイトスピーチとは何か を読んで

ヘイト・スピーチとは何か (岩波新書)

ヘイト・スピーチとは何か (岩波新書)

非常に難しい問題と思う。

まず、全体的に本の内容などを説明すると、最近の日本での排外主義とそれに伴った不法行為を問題として捉えている。そして、こういったことに対する政策について、日本と世界で比べた場合にどう違うのか、ということを説明し、その是非を考えるという内容になっている。

しかし、残念なことに、この筆者の方が明らかに「弱者寄り」で、「反権力思想」の持ち主であるが故に、明らかにそっち寄りの意見が延々と述べられている。

それが証拠に、ところどころに、何の根拠もないことが書かれている。つまり、結果からいきさつを妄想して「権力側の策謀によって反ヘイトスピーチ派が権力側から阻害されている」としたり、「在日特権は妄想だ、このことについては後で説明する」などと書きながら、法律上の論拠については全く触れていないのだ。

ただ、客観的事実として、アメリカでは差別関連の不法行為に3割の加懲罰が加えられることや、ドイツでは「アウシュビッツ関連はウソだ」と公表すると罰せられる。というようなことが書かれており、この辺は参考になると思う。

ヘイトスピーチとは何かということで、私の考えを示すと、それは大きく三つの例え話で説明できる。

その三つとは、
1.ピーマンの嫌いな子供の話
2.ピーマンが嫌いな子供たちがたくさんいる中で、集会をしてピーマンを食べる子供の話
3.ピーマンの好きな子供がいじめられやすいことに対して先生がした対応の話

1.基本的にヘイトスピーチと言われるようなことをする人は、ピーマンが嫌いな子どもと同じである。そういったことをする行動理由の一つに、「好悪の感情」があることは間違いないのだ。問題は、大の大人がピーマン嫌いであるということと、ピーマンが嫌いなことを理由としてピーマン畑に襲撃をしていることである。この2つは問題であろう。

2.次に、ヘイトスピーチをされる側の人は、日本には「郷に入りては郷に従え」ということわざがあるのに、それを無視している人たちである。ピーマンを嫌いな人がたくさんいる中で、「秘密に集まってピーマンを褒め称えたり」すれば、ピーマン嫌いの大多数の人から何らかの偏見を持たれたりしても仕方ないだろう。誰だって、よそ者や理解できない人は怖いのだ。だからそういった人が集まり始めれば、恐怖心から攻撃したくなる。だから、対策として、集まらずに「ピーマンが好きなんだ」とするのもひとつの手であると思う。

3.こういったように、ヘイトスピーチと言うだけあって、極論すれば根本には「好悪の感情」の話がある。

「好悪の感情」は誰でもあるものである。嫌いな食べ物や考え方がない人などいるだろうか?だから、ヘイトスピーチを批判する人も極言すれば「そういった差別行為が嫌いな人」でしかない。

その観点からすれば、ヘイトスピーチに関する議論やいざこざは全て、「ピーマンを嫌いな人」と、「ピーマン嫌いな人が嫌いな人」が言い争っているに過ぎない。つまり、どちらも「好悪の感情」を動機として自分の正当性を論証しようとしているのだ。ここはお互いに理解しなければならない。

しかし、ピーマンを好きな人たちは、そもそも少数派で、いじめられやすい子どもたちなのである。こういった人たちをかばいたくなる優しい人が出てくるのはいいことだ。

けれど、この問題自体は公平に見なければならないのが先生である。ならば、先生は、「ピーマンのことで言い争いやケンカをしないように」と言うしかないだろう。なぜなら、多数派に味方しても、少数派に味方してもエコヒイキになるからだ。

ということは、こういった態度こそが政府が取るべき政策であり、基本とすべき考え方である。ケンカをすればどっち道、「ケンカ両成敗」であることは言うまでもないけど、特にピーマンが好きか嫌いかでケンカになった場合は、いつもより少し重い罰を与える。というのが一番納得できる対処法だと思うのだが、どうだろうか?

そしてこういった問題がどうしたら起きにくくなるかと言えば、お互いが「お互いに好悪の感情があること」を理解して、それを認めることだと思うのだが、どうだろうか?

「誰かの好悪の感情を認めること」には、多数派も少数派も関係ないはずである。