空を理解する方法について

「空を理解する方法」でその表現が正しいのかどうかわからないけれど、というのも、私が空と思っているものが空であるのか、それを実証することができないからである。

あと、私自身のものの理解の仕方も影響している。

私は、理論型のようであるけれど、実は直感型である。(ほんとは理論と直感の意味を先に定義しておかないとならないけど、それをやることは相当に長くなるのでやめておく、よって、私の直感や理論という言葉と、他の人のその言葉には隔たりがあるかもしれない)

先に直感による「確信」があって後、理論でそれを補てんすることが多い。表出されるものは理論であるから、理論型のように思われるであろうし、自分自身も理論型と思っている部分もある。

しかし、事実としては、新しいことを気が付くようなときは、常に直感が先にある。つまり、途中の理論が無くて、いきなり答えが出てくるのだ。それで、後は、その答えを理論で秩序付けるということになる。しかし、直感が出るためには、ある程度の下積みのような知識や、その答えにたどりつくための理論も必要である。ただ、直感を理論で補てんするためには、その前にあった知識や理論の少なくとも十倍くらいは必要なのであり、こういった意味で「いきなり」答えが出てくることが多い。

まあ、自分のことはこれくらいにしておいて、空の理解の仕方にも大きく分けると三通りあるのではないかと思う。

空とは、縁起(すべてのものは、これがあるからあれがあるのであり、あれがあるからこれがあり、これは全て同時に起こっていて、あるわけでもなく、ないわけでもなく、ありかつないわけでもない)であるが故に空であるという理論なのだけど、ここで注目したのは、縁起が常にあれとこれという二つのものから起きていることである。

西田は、この一方を主(主体)として、もう一方を客(客体)としたのが西洋哲学だとして、これを主客二元論と名付けたらしい。しかし、仏教的観点、または相対的観点から言えば、これは、あくまで「あれ」と「これ」であって、主体と客体である必要性は全くなく、あれが全てであって、これも全てであっても全く差支えは無い。

そこで話を主客二元論まで戻して、主客二元論的に、この「空」に関する理解への三つの方法論を示したいと思う。

人間には必ず「自分」や「私」と言った概念があるのであって、これは誰しも簡単に持っているものである。だから、1.この私という作用を強めることで空を理解しようとする方法、2.逆にこの私以外という作用を強めることで空を理解しようとする方法、3.そのどちらでもなく私と私以外の関係を知ることによって空を理解しようとする方法、があることになる。

1.の代表的なものは、仏教の唯識になる。これは己の識が全てを作り出しているとすることによって、全てのものと自分との一体化を謀るものであると言えよう。すると、これは私の作用を強めることで、空を理解する方法であると言うことができる。

2.の代表的なものは、仏教の浄土思想ということになる。これは自分以外の働き(阿弥陀仏の働き)を強くすることによって、自分以外の働きの一部に自分を置き、そうすることで全てのものと自分との一体化を謀るものであると言える。すると、これは私以外の作用を強めることで、空を理解する方法だと言うことができる。

3.は、竜樹的方法ということができるだろう。仏の教え(虚論の消滅)を信じて、そこに説かれている縁そのものを理解し、縁そのものを理解することで空を理解する方法と言うことができるだろう。

これに先の理論と直感を合わせるならば、最低でも六種類の空を理解する方法があることになる。長々と自分のことを述べたりしたのは、これらのことが直感的に導き出された答えで、しっかりとした理論がないこと、また、これはあくまで私見で当たっていることの確証はないということを示唆するためである。

これと、「誠」も関係が深いなと、荀子を読んでいて思った。誠とは、自分が自分を含めた全てに対して、裏表のないことであるから、私の作用をなんかしていると思ったからである。(思っただけ終わり)ただ、私が直感的に思ったことは、仏教の境地と、儒学の境地は深いところで、つまり、私の体感し理解し得ていない領域において、間違いなくつながっているということである。