21.荀子 現代語訳 不苟第三 十章

十章

 君子は、位が尊くなっても常に恭しくすることを忘れず、心を用いることは小さくてもその行われる道は大きく、実際に聴いたり視たりすることは卑近なことばかりであるけれど、聞こえたり見えたりするところははるか遠いところにまで及ぶ。

 これはいったいなぜだろうか。これは「操術」(操作する方法・堅く守っている方法論)がそうさせているのである。(是れ操術の然らしむるなり)

 だから、千人万人の情も、一人の情こそこれなのである。天地の始まりも、今日こそこれなのである。百の王がたどった道も、今の王こそこれなのである。

 君子が、今の王道を詳しく審議して、百王も前のことを論じること、例えば、それを手に取り拝んで議論するのと何ら変わらないのである。

 礼義の伝統と秩序だった統一性から推理して、是非の分かれ目を分別し、天下の要を総合して四海の内を治めること、例えば一人の人を使うのと何ら変わらないのである。

 だから操(手に取り操ること)はいよいよ集約させられて、行われる事はいよいよ大きいものとなり、たった五寸ほどの定規で天下の隅々まではかりつくすのである。

 そうであるから、君子が部屋から出ないのに、四海の内の情の全てここに集まることは、操術がそうさせているのである。(●君子の室堂を下らずして海内の情の挙な此に積まる者は、則ち操術の然らしむるなり)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■君子の手に取るべき術「操術」について述べられている。君子は操術を用いずしていやしくもせず。(君子は不必要な労力を用いない)

■操術は、いかにも神妙な術であるかのようであるけれど、実はそうではない。ただ、もちろん体得することは難しいだろう。ここに前出「操徳」(長く変わらないことで生まれる徳)と同じ「操」の字が用いられていることは偶然ではない。つまり、長くとり保つこと:不断と継続があってこそ、操術が身に付いてくるのである。(下の中庸の引用を参照のこと)

韓非子の術は、この「操術」を部分的に具体化したものと言っても過言ではなかろう。部分的にというのは、この荀子の操術の方が、事は約(集約されている)であるのに及ぶ範囲が大きいからである。

■中庸第十三章より「孔子は言った。道は人から遠いものではない。もしもその道が人から遠いのならば、それは道と言われるものではない。詩に『この斧の、この柄を見ながら、この斧の、この柄となる木を切り倒す、そうそう、それは遠くはない、どうして遠いと感じるの』とある。だから君子は人によって人を治めて、改まったのなら治めることを止める。忠と恕は道と何ら違うことはない、これが自分になされて嫌なのならば、これを人に施してはならない」