20.荀子 現代語訳 不苟第三 九章

九章

 君子が心を養うとき、誠より善いものはない。誠を致すためには、他の事などない。ただ仁のみを守り、義のみを行うのだ。(●君子、心を養うには、誠より善きは莫し。誠を致すには則ち他事なし。唯仁のみを守と為し唯義のみを行と為すべし)

 誠心で仁を守れば、これははっきりとした形で現れ、はっきりとした形で表れれば、その働きは絶妙なもの(神)となり、働きが絶妙なものとなればよく物事を化することができる。

 誠心で義を行えば、ここには道理と法則(理)が生まれ、道理と法則があれば、ものごとをはっきりと正しく捉える事ができ、ものごとをはっきりと正確に捉えることができれば物事を変ずることができる。

 変と化とが代わる代わる起こることを、天徳と言う。

 天は何も言わないけれど人はその高いことを知り、地は何も言わないけれど人はその厚いことを知り、四季は何も言わないけれど百姓はこれの来る時を知っている。これらのものに言わないでも分かる常があるのは、その誠を致しているためである。

 君子が至徳であるならば、黙っていても伝わり、何も施さないで親しまれ、怒っていなくても威風がある。このように、人がこの君子に従うのは、その独りを誠にしているからである。

 善を道としている者でも、誠が無いとその独りを善くすることはできない、その独りを善くすることができないなら、それがはっきりとした形で現れることもなく、はっきりとした形で現れないならば、たとえ心で思って顔色に出し言葉にしたとしても、それは伝わらなくて皆はためらって従わない。仮に従ったとしても必ず疑う。

 天地は大きいと言っても誠でないならば万物を化することはできず、聖人に知があると言っても誠でないならば万民を化することはできない。父子は親愛であるはずであるが誠が無いと疎遠となり、人の上に立ってる者は尊敬されるべきであるけれども誠が無ければ卑しい者となる。

 それ誠というものは君子の守るべきところであって、すべての営みの本である。ただ誠のあるところのみ、その善き同類が集まり目的が達せられるのであり、誠を操守してのみそれを得ることができて、誠を捨てるならそれを失うこととなる。

 誠を得て操守することができるならば、どんな事もすんなりとで進むようになり、すんなりと進むようになれば独立独行でき、独立独行してやめることがないのならば完成するところがあり、完成するところがあって、その善さが尽くされて長く続き、そうして、これが初めに帰るということがないのならば、化すということができる。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■「誠」が何で、どういった効用があるのか述べられている。君子は誠が無ければいやしくもせず。

■大学 伝六章より 「所謂(いわゆる)その意を誠にすとは、自ら欺くなきなり。悪臭を悪むがごとく、好色を好むがごとし。これをこれ自ら謙(こころよく)すと謂う。故に君子は必ずその独りを慎むなり。」(その意を誠にするとは、自分を欺くことがないことである。その悪を嫌うことは悪臭を嫌うかのようであり、その善を好むことは好色を好むかのようである。このように、自分の心に正直でいることを、自分に謙すと言う。だから君子は独りでいる時もその身を慎むのである。)謙とは善に従順であることに止まることである。

■誠は大事だなと思う。正直の始まりは誠であり、信であることの始まりは正直であり、忠(まごころがあること)の始まりは信である。素直の始まりは誠であり、順(善に従うこと)の始まりは素直であり、徳の始まりは順である。