19.荀子 現代語訳 不苟第三 七・八章

七章

 君子は治を治めて、乱を治めるわけではない。とはどういった意味なのか。これに答えると、礼義を治と言って、礼義でないことを乱と言う。だから、君子は礼義を治める者なのである。礼義でないものを治める者ではない。(●礼義を治と謂い、礼義に非ざるを乱と謂う。故に君子は礼義を治める者なり。礼義に非ざるものを治める者には非ざるなり)

 そうであるならば国が乱れている時はそれを治めようとするのか。これに答えると、国が乱れてこれを治めるとは、乱によって国を治めるということではない。乱を去ってからそこに新たに治を導入して治めるのである。

 人が汚れてこれを修めるとは、汚れによってこれを修めるという意味ではない。汚れを去ってからこれに変えて潔によって身を修めるのである。

 だから、あくまで乱を去るのであって、乱を治めるわけではない。あくまで汚れも去るのであって、汚れを修めるというわけではない。

 治という言葉の意味について、君子は、治をなすのであって乱をなすのではなく、修をなすのであって汚をなすのでないと言うことができる。

八章

 君子は、その身を清くしてこれと同じ人もこの君子に合する。また、言葉を善くしてこれと同じ人もこの君子に応ずる。(●君子は其の身を潔くしてこれに同じき者も合し、其の言を善くしてこれに類する者も応ず)

 だから、馬がいなないてこれに馬が応ずるのは知があるためでなく、その自然の勢いというものがそうさせるのだ。

 また、風呂から出た人が、下着を綺麗なものに取り換え、風呂に入る前からかぶっていた帽子のほこりを手で払うのは、人の情というものである。

 どうして、自分が清い道徳を保っているのに、汚れた邪道の者を受け入れることができようか。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885

解説及び感想

■七章は、当時の弁論家の屁理屈によって、その「治まる」という言葉の意味が曖昧にされていたのを正したのであろう。八章は、「類は友を呼ぶ」ということについて誰もが納得をいく形で説明されている。君子は、乱を治めて汚れを修めることはいやしくもせず、潔をもて汚を受け入れることはいやしくもせず。

荀子韓非子共通で、意味の深い一字がある。勢・数・情である。「勢」は孫子にもあるけど、自然の勢い、自然の然らしむるところ、といったような意味。「数」は、計算できること、理論的に秩序付けることができること、といったような意味。「情」は、人の感情のこと、孫子だと「情報」の意味で用いられている。情報と人の感情に同じ「情」の字が使われているところは無関係ではない。