70.学問のすすめ 現代語訳 十七編 第一・二段落

十七編

人望論

第一段落

 十人の見るところ、百人の指さすところで、何某は確かな人物である、頼もしい人物である、この始末を託しても必ず間違いはないだろう、この仕事を任せても必ず成し遂げるであろうと、あらかじめその人柄を当てにされて、世の中一般から望みをかけられる人を称して、人望を得る人と言う。

 おおよそ、人間世界に人望の大小や軽重というものはあるのだけれど、仮にも人にあてにされる人でなければ、何の用にも立たないものである。その小さいことを言えば、十銭の銭を持たせて町に使いにやるとするならば、十銭だけの人望があって十銭だけは人からあてにされる人物であるということになる。これが、十銭より一円、一円より千円万円、遂には数百万円の元金を集める銀行の支配人となり、または一府一省の長官となって、ただ金銭を預かるだけでなくて、人民の便不便をも預かり、その貧富も預かり、その栄辱も預かるということになるのなら、このような大任に当たる者は、必ず平生から人望を得て人にあてにされるような人でなければ、とても事を為すことはできないだろう。

 そもそも人をあてにしないのは、その人を疑うからである。そして、人を疑い出すと際限はないものである。監視役を監視するために監視役を置き、監察を監察するために監察を命じ、結局何の取締にもならないでいたずらに人への気配りで損をするような話は、今も昔もその例は甚だ多い。

 また三井大丸の商品は、本物で大丈夫であると品物をしっかりと見定めないでこれを買い、馬琴の作ならば必ず面白いと言って表題だけを聞いて注文する者も多い。だから、三井大丸はますます繁盛し、馬琴の著書はますます流行して、商売にも著述にも甚だ都合がよいのである。人望を得ることの大切さを知らなければならない。

第二段落

 十六貫目の力量がある者へ十六貫目の物を背負わせ、千円相当の財産がある者に千円の金を貸すべきだということなら、人望も栄誉も無用に属して、ただ実物だけをあてにしているようではあるけれど、世の中の人事はそのように簡易で淡白なものではない。十貫目の力量がない者でも、座ったままで百貫目の物を動かすことができるし、千円相当の財産がない者でも数十万円の金を運用することができる。

 ためしに、今、富豪と評判の商人の帳場に飛び込んで、一時で諸帳面の清算をしたら、出入りの差し引きで数百数千円の不足があったとする。この不足の分はすなわち財産のゼロ点以下の不足ということになるから、一文無しの乞食よりも数百数千円劣っているということになるけれど、世の人がこれを見ること乞食と同じでないのは何ゆえか。他でもない、この商人に人望があるからである。

 ならば、人望というものは、力量によって得るものでもなく、また財産が多いということによって得るものでもなく、ただその人の活発な才智の働きと正直な本心の徳義によって次第に積むことができるものなのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■やっと最終章に入った。今週か来週中にはこの現代語訳も終わるだろう。正直なところ、真ん中あたりから、かなり飽きてきたというか、うんざりしてきたのだけど、あと少しだ頑張ろうということで、続けてきた。少しは人望を得ることはできるだろうか(笑)