31.荀子 現代語訳 栄辱第四 十一章

十一章

 人の情というものは、食卓には牛肉豚肉があることを望み、着物は美しい刺繍や柄のあるものを望み、出かけるには高級車に乗ることを望み、使う必要のない財産や余分な富を持つことを望む。このような有様で、年老いて世を重ねても、それでも足ることを知らないのは、人の情なのである。

 今、人は、多くの家畜を養っていても、自分の食卓に敢えて酒や肉を置こうとはしない。刀や布を多く持ち米を蓄えても、自分の着物を敢えて絹糸のものにしようとしない。貴重なものは蔵に厳重にしまっておいても、自分が出かけるときタクシーばかりを使おうとはしない。これはどうしてか。欲しくないわけでないけれども、遠く未来に思いを致して、後々のことを考え、財産が無くなってしまうことを恐れているからである。こうして、さらに節約をしてやりたいことを我慢して、倹約蓄蔵してこれを残そうとする。これは、自分の思慮を深くして後々のことに思いを致しているのであるから、甚だ善いことであると言う以外なんとすることができようか。

 今、かの盗人のように生きて、浅い見識しかないような者たちは、こういったことをすることさえ知らないのである。食べ物がいかに多くあったところで、後の事を考えなかったらすぐに食べ物は尽き果ててしまうだろう。そして、寒さと飢えを免れることができず、ひょうたんに乗って溝を行き、最後には行き詰まって屍となるような原因となるのである。こういった者に、どうしてかの先王の道・仁義の統・詩書礼楽の意味がわかるだろう、わかるはずがないのだ。

 先王の道・仁義の統・詩書礼楽といったものは、天下至極の深い思慮とも言えるものであり、また、天下の全ての人のために思慮を深くし、後々の事をよく考え、万世を安んじようとしたものなのである。その流れは過去から未来に渡って長いものであり、その思いやりが致すところは厚く、その功績と約束された繁栄は甚だ遠いものであるからには、善に従って身を修めた君子でしか、これを本当の意味で理解することはできない。

 だから、短いつるべでは深井戸の水を汲むことはできないし、智慮が深くて細かいことにも思いが至っていないのなら、やすやすと聖人の言葉について語ってはならない、と言うのだ。かの詩書礼楽といったものの意味は凡人が知れるようなことではない。

 そして、だからこそ、一度したらならそれを再びして、これを長く保つようにし、これを広くしてこれにどこまでも通達し、これのことを考えては安心し、これを反復実行してその結果について考察し、そうしていよいよこれを好むようにしなければならない、と言うのだ。(●これをひとたびしては再びすべきなり、これを有しては久しくすべきなり、これを広くしては通ずべきなり、これを慮りては安んずべきなり、反鉛してこれを察してはいよいよ好むべきなり)

 これによって情を治めることができれば利があり、これによって名を成すことができれば栄があり、これによって人と共存することができれば和することができ、これによって一人でいる時を良くすることができれば満足を知ることができる。自分の心を楽しませるとはこういったことなのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■思慮深いことの大事なこと、また、その思慮深いことの中でも最たることである「聖人の言」について述べている。

■中庸・第二十章より「人、一たびこれを能くせば己これを百たびし、人、十たびこれを能くせば己これを千たびす」