30.荀子 現代語訳 栄辱第四 九・十章

九章

 仁義を旨とし徳行を心がけることは常に安心するための方法である。そうではあるけれども、必ずしも危うい時がないというわけではない。(●仁義徳行は常安の術なり。然れども必ずしも危うからずんばあらず)

 汚れた心と慢心と行き当たりばったりと盗みは常に危うくなるような方法である。そうではあるけれども、必ずしも安心できる時がないというわけではない。(●汚慢突盗は常危の術なり。然れども必ずしも安かずんばらず)

 だから君子は、常の道の方を重んじてそちらの道を生き、小人は怪しい方の道を生きるのだ。(●故に、君子は其の常に道るも、小人は其の怪に道る)

十章

 そもそも、人には、同一なるところがある。飢えれば食べたいと思い、寒ければ温まりたいと思い、疲れれば休みたいと思い、利を好んで害を嫌がることは、人が生まれながらにして持つ自然なことである。これらは、有無を言わさず全て人に共通なことであり、聖王でも大泥棒でも同じなのである。

 目は白黒と美醜を見分けて、耳は音声とその良し悪しを聞き分け、口は酸っぱい辛い甘い苦いを感じて、鼻は良いにおいと悪いにおいを嗅ぎ分け、体と皮膚は寒い熱い痛い心地よいを感じ分けることは、人が生まれながらにして持つ自然なことである。これらは、有無を言わさず人に共通のことであり、聖王でも大泥棒でも同じなのである。

 このように、人は同じであるから、誰でも聖王とも大泥棒とも職人とも農夫とも商人ともなれるのである。しかし、普段の心配りと習慣が積まれることによってのみ、これらの違いが生まれてくるのである。

 もし、聖王ともなれれば常に安心と繁栄があり、暴君や大泥棒となるならば常に危険と辱めが待ち受けている。聖王ともなれれば常に愉快な心持で、職人や農夫や商人となれば常に疲れ果てなければならない。そうであるのに、人が努力してこれをなし、聖王になろうとする人がこれほど少ないのはどうしてだろうか。そう、それは無学文盲がそうさせるのである。

 聖王といえども、生まれながらにして全てが備わっていた人ではない。古い悪習を捨てようと考えて心身を修めることをして、至善が尽くされるまで努力して、そうしてそれらが備わった者なのである。

 人は生まれた時は皆小人なのである。師もなく決まりごともなかったら、ただ利だけを求めるばかりであろう。生まれつき小人である上に、生まれた時代が乱世ならば乱れた習慣ばかりが身に付くこととなる。こうして、小に小が重ねられて、乱によって乱が出来上がる。いかに君子と言っても、自然の勢いが加勢してくれなければ、このことに臨んで、どんな対策を施すこともできないだろう。

 今の人達は、口を開けて腹を空かすように利を求めているだけだ。そんな状況でどのようにして礼儀や辞譲や廉恥や精進を欲しがるだろうか。ただ欲しいものを口に入れ、ただ好きなことを飽くまで貪りつくすだけである。人に師もなく決まりごともないならば、口と腹が食べ物を求めるように、その心もただ利ばかりを求めるのである。

 今、仮に、おいしい肉や白米を食べたことがなく、雑穀や野菜の粗末なものしか食べたことがない者がいたとしたら、その人はその粗末な食べ物をこれこそ最高の食べ物だと思うことだろう。そして、不意においしい肉や白米を食べている人を見たのなら、これを見て驚き、なんと怪しいことだと言うであろう。しかし、一度このおいしい食べ物に近付き、臭いをかいで良い臭いだと思い、食べておいしいと思い、体の血色もよくなれば、今度は粗末な食べ物を捨てて、このおいしいものばかりを食べようとするだろう。

 今、かの先王の道と仁義の系統によって、人々が、お互いに群居し、お互いに支え合い、お互いにこの道を褒め称え、お互いにこれを確たることにしようとしてみよ。これと逆に、かの暴君や大泥棒の道によって、お互いに隔たりを設けることは、おいしいものを知らずに粗末なものばかりを食べていることと何が違うだろうか。そうであるのに、人が努力してこれをなし、聖王になろうとすることがこれほど少ないのはどうしてだろうか。そう、それは無学文盲がそうさせるのである。

 無学文盲は天下で共通して抱える患いであり、人のわざわいと害のうちでも最も大きなものである。(●陋なる者は天下の公患なり。大殃大害なり)だから、仁者は好んで人に教え諭すことをすると言うのだ。

 これを告げて、これを示し、これを習って、これを積み上げ、これに寄り添って、これを重ねるならば、かの塞がれた者もわずかに通達し、見識の狭い人もわずかに見識が広がり、愚者もわずかに智者となろうとする。もしこういった意志の伝達が行われないのなら、人間は生まれて何も変わらないということになるから、湯王や武王のような聖王が世を治めても何も益すところはないであろうし、逆に、桀王や紂王のような暴君が世を治めても何も損することはないであろう。しかし、聖王が世を治めれば、その徳に人々が従って世はうまく治まり、暴君が世を治めれば、その悪徳を人々が真似して世は乱れるのである。こういったことであるから、人の人情というものは、このようにもなり、あのようにもなるものであると言うのだ。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■陋を福沢諭吉学問のすすめの言葉を借りて、無学文盲とした。学問のすすめとも関係が深い章だと思う。