71.学問のすすめ 現代語訳 十七編 第三〜五段落

第三段落

 人望は智徳に属していることは当然の道理であって、必ずそうであるべきはずであるのだけど、天下古今の事実においては、その反対を見ることも少なくはない。

 藪医者が玄関を広くして盛んに流行り、薬屋が看板を金にして大いに薬を売りさばき、山師の帳場には空の金箱が置かれて、学者の書斎には読めない原書を飾り、人力車に乗っている時はこれ見よとばかりに新聞を読んでいたのに家に帰ると昼寝すして、日曜日の午後に礼拝堂で涙を流していた夫婦が月曜日の朝には喧嘩をする。

 なんとよどみのない天下、真偽雑駁、善悪混同、どちらを是としてどちらを非ととしたらよいのだろうか、甚だしいものに至っては人望があることを見ると、その本人が不知不徳なのではないかと占いする者さえいる、こういったことによって、見識の高い士君子は世間の栄誉を求めずに、これは浮世の虚名だとしてことさらに避ける者がいるのも実に無理からぬことである。士君子のこころがけにおいて称賛されるべき一カ条と言うべきである。

第四段落

 そうではあるけれども、おおよそ世の中のことで極端な一方だけを論じていれば必ず弊害と言うものがある。かの士君子が世間の栄誉を求めないことは多いに称賛されるべきことのように思われるけれども、栄誉を求めるのか求めないのかを決する前に、まずは栄誉の性質を詳しく考えなければならない。

 その栄誉は果たして虚名の極度のものであって、医者の玄関、薬屋の看板のようなものならば、もちろんこれを遠ざけて、これを避けるべきことは論じるまでもないことである。しかし、また一方から世の中を見てみれば、社会の人事は皆全て虚から成り立っているものではない。

 人の智徳は、例えるなら花の咲く樹のようなものである。この樹が育てられて花が咲いたのに、どうして無理やりにこれを避ける必要があるのだろうか。栄誉の性質を詳しく考えないで全てこれを捨ててしまうことは、花を払って樹木の所在を隠すことと同じである。これを隠したところで効用が増すわけではなく、あたかも生き物を死んだものと扱うかのようで、世間のためを考えるなら不便利の大なるものと言うべきである。

第五段落

 そうであるならば、栄誉人望というものは求めるべきものであるのか。いわく、そうである。勉めてこれを求めなければならない。ただしこれを求めるのに当たって分に適することが重要なのである。

 身心の働きで世間の人望を収めることは、たとえるなら米を計って人に渡すことのようなものである。米計りのうまい人は一斗の米を一斗三合に計り出し、米計りの下手な人は一斗の米を九升七合に計り込むことがある。私のいわゆる分に適するとは、計り出しもなく計り込みもなく、まさに一斗の米を一斗に計ることなのである。

 米計りのうまい下手といものはあるけれど、これによって生ずる差はわずかに二、三パーセントであるけれど、才徳の働きを計り出すことに関しては、その差は決して三パーセントにとどまらなくて、上手なら二倍三倍に計り出し、下手ならば半分にも計り込む者さえいる。

 この計り出しの法外な者は世間に対して法外な妨げをしているわけであるから実に憎むべきことであるけれど、このことはとりあえず置いておいて、今、ここでは正味の働きを少なく計り込んでしまう人のために少し論じることとする。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■このことに関しての心得としては、言志録に言う「名は実の賓なり」というのが、最も的確なのではないかと思う。栄誉や名誉や人望と言うものは、実力の賓客である。ということである。賓客(大事な客)は、その客を呼べる立場にならなければ当然呼べないし、何かの折にこちらの行事に参加するということになったら断ることはできない。来る者はこばまず、去る者は追わず。という感じであろうか。人情はとかく名誉を求めがちであるけれど、自分に分不相応な客を呼び続けるならば、その客からも逆に嫌われてしまうだろうし、さりとて来ても、他の客とは不釣り合いになり結局気分を害してしまうことになる。だから、簡単に呼ぶことはできない。しかし、かと言って、「来る」というのを断るわけにもいかない。こういったスタンスが良いのではないかと思う。

■現在読んでいる「論語と算盤」にも、これと同じようなことが多く書かれている。渋沢のような大実業家が語ると非常に説得力のあることばかりと思う。