26.荀子 現代語訳 栄辱第四 四・五章

四章

 犬猪の勇というものがあり、商人盗人の勇というものがあり、小人の勇というものがあり、士君子の勇というものがある。(●クテイの勇なる者あり、賈盗の勇なる者あり、小人の勇なる者あり、士君子の勇なる者あり)

 飲食を争って恥じらうことなく、物事の是非も知らないで、怪我や死も恐れずに、多いものや強いものを畏れない。このように、いついかなるときも同じような有様で、ただ飲食だけを求めるならば、これは、犬猪の勇である。

 自分の利益となるようなことにおいて、財貨を争って辞退したり譲ったりするようなことはなく、果敢に動くのはいいけれど、その有様は猛々しく貪るようで道徳を省みるようなことはない。このように、いついかなるときも同じような有様で、ただ利だけを追求するならば、これは商人盗人の勇である。

 死を軽んじて暴れるだけなら、これは小人の勇である。

 義のあるところでは権力に傾くこともなく利益を顧みることもなく、国を全てやると言われても自分の見解を変えるようなことはなく、死を重いものだと心得て、義を抱いて曲がらないならば、これこそ士君子の勇である。

五章

 ハエやメダカは浅瀬を泳ぐ魚であるけれど、もし水が引いて自分が砂に取り残されてしまったら、どれだけ水を求めても水に行きつくことはできない。人にしても、患いができてから慎んでこれをなんとかしようと思ったところでどうすることもできない。

 自分を知っている者は人を怨むようなことはなく、命を知っている人は天を怨むことはない。人を怨む人は行き詰まることとなり、天を怨むようではその人に志はない。これが自分にないのに、これを人に求めるならば、それはなんと迂遠なことであろうか。(●自ら知る者は人を怨まず、命を知る者は天を怨まず。人を怨む者は窮し、天を怨む者は志なし。これを己に失しながらこれを人に反求するは、豈れ迂遠ならずや )


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■四章は前章の内容を継いで、その争いごとの原因となる四種類の動機を勇として明確に提示している。五章では、その勇の使いどころを慎むべきことと、勇が起こる原因がどこにあるのか明らかにしている。

■中庸・第九章より、「子路強を問う。子曰く、南方の強か。北方の強か。そもそもなんじの強か。寛柔もって教え、無道に報ぜざるは、南方の強なり。君子これに居る。金革をねとことし、死して厭わざるは、北方の強なり。而して強者これに居る。故に君子は和して流せず、強なるかな矯たり。中立してよらず、強なるかな矯たり。国道あれば塞を変ぜず、強なるかな矯たり。国道なければ死に至るまで変ぜず、強なるかな矯たり」(最近現代語訳をつけていないのだけど、これを読むほど勉強熱心な方は、恐らく漢文をある程度読めるだろうし、もし読めなくても、気になって本を買って勉強されるかもしれないという期待を込めてそのようにした。ここに本文を転写するのは自分の勉強のため)

■何か自分に不満がある時というのは、ここで荀子が述べているように、二つの場合しかない。1.誰か自分以外の人に対して不満がある時、2.自分の運命や境遇、またはそのときの時勢に対して不満がある時。1.が人、2.が天である。2.については天論で詳しく述べられるであろうから、ここでは詳しく解説しない、まあ、一言でいえば、「やるのか、やらないのか」ということになる。1.については、聖書のこの一節(記憶)と私が以前に書いた論語の解説を添えて解説としておく、聖書より・裁いてはならない「あなたは裁いてはならない。あなたの目の中には大きな梁があるのに、どうして人の目の中にある小さなほこりを取り除こうとばかりするのだ。その人の目の中のほこりを取ってあげる前に、あなたはあなたの目の中の梁を取り除かなければならない」http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120330/1333117667