40.荀子 現代語訳 非相第五 九・十章

九章

 細かいことを弁論することは、例えなどによって物事の本質の一端を現すことには及ばない、例えなどによって物事の本質の一端を現すことは、物事の本質そのものに基づいて説くことには及ばない。

 細かいことを弁論すればその見識は遠いところにまで及び、例えなどによって物事の本質の一端を現せば正確ではっきりとしていて、物事の本質そのものに基づいて説けばそれが道理から外れないならば、それは聖人や士君子の弁論としてふさわしいものである。(●小辯するは端を見わすに如かず、端を見わすは文に本づくに如かず。小辯して察らかなると、端を見わして明らかなると、文に本づきて理まるとの三者にて、聖人と士君子との分具わる)

十章

 小人の弁論というものがあり、士君子の弁論というものがあり、聖人の弁論というものがある。(●小人の辯なるもの有り、士君子の辯なるもの有り、聖人の辯なるもの有り)

 あらかじめ考えていたり、こう弁論しようと思っているわけでもないのに、いざ弁論が始まると、内容が道理に当たっていて言辞も美しくて誰でも共感でき、抑揚の節目があるのに流暢で、急な横やりにもよく応じ、千変万化して極まることがない。このようであるのなら、これは聖人の弁論である。

 あらかじめしっかりと考えていて、こう弁論すべきだと心に思うところがあり、さほど長い弁論でないならば十分に聴く価値があって、言辞も整っていて事実だと信じるに足り、弁論することも広い見聞をもとにしたもので正しさにおいて共感できるならば、これは士君子の弁論である。

 その言葉を聴いていると雄弁なようではあるけど話自体に一貫性がなく、その論じている通りにやらせてみれば偽りばかりで功績が上がらず、上はしっかりとした正しい人にさえ従うことができず、下は罪咎の無い人々さえ平等に仲良くさせることができない。

 実際はこのような単なる役立たずであるのに、口から出る言葉は整っていて、それは単なるうわごとでしかないのに節目を備えており、奇抜で大げさな話ばかりかと思うと黙り込んで何も言わないこともある。

 こういったものを姦人(悪人)の雄弁と言って、聖王が起こる時には、これをする人がまず一番初めに誅殺されるのである。そして、盗賊がこれに次いで誅殺される。盗賊は、貧しいから仕方なく悪事をしている者も含まれているから、聖王が出れば改心するかもしれないが、姦人は貪欲によって悪事を行っているのであって改心する見込みがないからである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■非相篇を締めくくるにふさわしい内容だと思う。というのも、人を見た目(相)で判断する次は、言葉(弁論)で判断するからである。この次は行いによって判断するということになろうけど、それは時間がかかる。だから、荀子は、第一の相(見た目)で人を判断することを否定し、次に第二の相(言葉)で人を判断することを慎重にさせ、そして第三の相(普段の行い)で人を判断すること促しているのである。

論語・為政第二より「人にして信なくば、その可なるを知らず。小車ゲイなく、大車ゲツなくば、それ何を以てこれをやらんや」(心と違うことを言って、言ったことと行いが違うのならば、これは信という徳がない人であって、もう、どうすることもできない。もしも、自転車の前輪と後輪をつなぐシャーシが無くて、列車の動力車と客車をつなぐ連結部品が無かったならば、これはどこに行くこともできないし、何の役にも立たない。)