105.荀子 現代語訳 君道第十二 一章

君道第十二

一章

 この人だと必ず国が乱れる乱君という者は居るのだが、この国だと必ず乱れるという乱国はなく、この人だと必ず国は治まる治人という者は居るのだが、これがあれば必ず治まるという治法というものはない。(乱君ありて乱国なく、治人ありて治法なし)

 ゲイの弓術が亡ばなくても、ゲイの子孫が的の真ん中にいつまでも当てることはできないし、禹の定めた治法は存していていも、夏の子孫がいつまでも王であるとは限らない。だから、法や術というものは、それだけではうまく行われることができないのであり、人と人で共感すべきことであってもそれだけでは何も行われることがない、だから、これらのものは人を得れば存在して、人が居なければ亡ぶのである。(故に、法は独り立つこと能わず、類は自ら行わるること能わず、其の人を得れば則ち存し、其の人を失えば則ち亡ぶ)

 法というものは、治めることの端(はしっこ、流末)である。そして、君子こそが法の源であるのだ。だから、君子が居れば、法が少しくらい省かれていたとしても全てのことを遍くするのに十分であり、君子が居なければ、法が備わっていたとしても、物事の順番を失して事の変化に応ずることができずに乱れるのに十分なのである。法の意味を知らないで、法の表面的なことばかりを正しているのならば、多くを知っていたとしても、実際に事に当たれば乱れを為してしまうのである。(法の義を知らずして法の数を正す者は博しと雖も事に臨みて必ず乱る)

 だから、明君は、人を得ることを第一に考えるのだけど、暗君は、権勢を得ることばかりを第一に考えるのである。(明主は其の人を得ることに急にして闇主は其の勢を得ることに急なり)

 人を得ることを第一に考えれば、身は労することなく安逸であるのに国も治まって功績は大きく名声も美しいものとなり、上は王となることもできて、下でも覇となることができる。

 人を得ることを第一に考えないで、権勢を得ることばかりを考えるならば、身は苦労するばかりで国は乱れて功績は廃れて名も辱められ、自分の家のお社の存続すら危うくなる。

 だから、人の主たる者は、これを探し求めることには苦労するのだけど、これを使うときには休むのである。書経・康コウ篇に「これ文王は、敬して畏れて独りを選ぶ」とあるのは、このことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■今回は、あまりにも簡単なことだけど、あまりにも気がつきにくいことが書かれていたので、多く、引用の(  )を使っておいた。現代風に例えるならば、こういったことである。つまり、プロのレーサーが乗れば軽自動車でもそれなりに速く、ずぶの素人が乗ればF1カーでも動かない。法を使いこなすためには、その法を使いこなせるだけの人が必要なのである。いかに善い法があったところで、これの本当の意味を理解して、それを使える人が居なければ意味が無いのである。例えば、ブラック士業と言われる人達は、法を詳しく知っているのにその破り方を教え、法を詳しく知っているのにそのくぐり方を教え、法を詳しく知っているのにそれが何のために作られたものなのかを忘れてしまっているのである。