易の研究(巽について)

昨日、歩き瞑想をしていたとき、とても風が強かった。

そのおかげで、昨日と今日は少し調子が悪かったのだけど、まあ、それは置いておいて、面白いことに気がついた。

私の散歩コースは、柳並木があるのだけど、その柳がすごい勢いで、風になびいていていた。6メートルほどもある柳の2メートルほどある柳の細枝が、女の人の長い髪が風になびくように、地面と水平まで持ち上がっていたのである。

それを見て思った。

「風が見える」

だが、すぐに逆のことも思った。

「昔の人にとって、風は、見るものだったのではないか?」

現在でこそ、「空気がある」という「空気の存在の概念」があるから、「風という実体がある」という「風という実体の存在の概念」があるのである。つまり、昔は、風というのは、常に見るものでしかなかったと思われるのだ。

だから、易経の巽は、従う、従属、木とかいったものを卦徳としているのであろう。

「空気がある」と思うから、風は、「従うもの」でなくて「従わすもの」であるのだけど、風の実体の概念が無ければ、風はそれになびかされているものを見るだけの「従うもの」となる。

そいうったわけで、なんか納得したのだった。

この理論について、さらに考えてみると、これは観察者の理論である。もしも、風を自分で主観的に感じたら、どう考えても風は従うものでなくて、自分を従わせるものとなってしまう。だけど、主観を一切取り入れずに、客観のみで風を観察するならば、空気の実体の概念がない限り、風は従うものとなる。こういったわけで、易経の根本原理に「徹底した主観を交えない観察者としての立場」が横たわっているように思う。