104.荀子 現代語訳 王覇第十一 十六章

十六章

 傷国とは何であろうか。

 答えて曰く、つまらない人間を人の上に立てて威勢を与え、道理からかけ離れたやり方で民衆から取りあげては騙そうとする、これこそが国を傷つける大災というものである。

 大国の君主であっても、目先の小利ばかりを好んでいれば、国を傷つけることとなる。音楽や婦女や住むところや狩場(今で言うならゴルフか)など、こういったものを飽き足らない様子で貪り、どんどんと目新しいものばかり好んで求めるならば、国を傷つけることになる。国を治めるための要所を修正して治めることを好まないで、大口をパクパク開けるかのように、人の持っているものを自分も持ちたいと思うのであれば、国を傷つけることになる。

 これら三邪が胸中にあって、さらに権謀傾覆の人を使って、外国に出かけてはこの人に全てのことを独断させるようであるならば、権勢は軽くて名は辱めを受けて自分の家のお社の存続すら必ず危ういものとなる。これが傷国というものである。

 大国の君主であったとしても、自分の本来の仕事を大事にしないで、昔からのしきたりや法律を敬わないで、詐欺のようなことばかりを好むのであるならば、朝廷の群臣も、これを見習って礼義を重んじることがなくなり、傾き覆すようなことを好んでそういった習俗を成すこととなる。朝廷の群臣がこのような習俗を成すようになってくると、庶民百姓もこれを見習って礼義を重んじることがなくなり、貪欲に利益を求めるような習俗を成すこととなる。

 君臣上下の習俗が、全てこのようなものになっていくと、いかに領地が広くとも権勢は必ず軽いものであり、人口が多くても軍は必ず弱く、刑罰が多く行われても下のものが命令に服しないこととなる。これを危国と言って、これこそが傷国というものである。

 儒者はこのようなことはしない。必ず曲弁する。(例えば道の曲がっている部分を、全体から捉えて、そのことを弁えてことに当たること。だから、細かいことも全体から捉えて、さらに要所のみに対処していくということである。岩波では「曲弁:つぶさにおさむ」と訓読されている)

 朝廷では、必ず礼義を重んじて貴賤の序列を慎重に割り当てさせる。このようにするのならば、士や大夫は自分の役割に務めるようになって、その制度に一生をささげるようになる。
 役人については、必ず制度を整えて役人同志の役割分担による秩序を重んじるようにする。このようにするならば、役人は法律を畏れて決まりに従うようになる。
 関所や市場では、税をかけないで割符を与えることによってえこひいきなどの偏ったことをしないようにして、禁止事項だけを明示する。このようであるならば、商人も皆信用できるようになり詐欺を働くようなことはなくなる。
 職人に関しては、必ず原料である木材を切り倒す時期を定めて、納期は少し余裕が有る位にして、その技巧が高い者については利益があるようにする。このようにするならば、職人は忠信を尽くすようになって手抜き仕事をしないようになる。
 村里については、必ず租税を軽くして農作物以外の税を無くし、土木事業を行うことを少なくして、農繁期に人手が奪われないようにする。このようにするならば、農夫はまじめに力を尽くすようになり他の仕事をすることがなくなる。

 士や大夫が自分の役割に務めて、その制度に一生を捧げるようになって、そうしてから兵隊は強くなり、
 役人が法律を畏れて決まりに従うようになって、そうしてから国が常に乱れなくなり、
 商人が皆信用を第一として詐欺を働くことがなくなれば、商人の通商が安全なものとなって商品の動きが盛んになり、国の用も足されるようになり、
 職人が忠信を尽くして手抜きしなくなれば、善いものを作る技術が高まって財物が乏しいということもなくなり、
 農夫がまじめに力を尽くして他の仕事をしないのならば、上は天の時を失うことがなく、下は地の利を失うことなく、中は人の和を得ることができて、全てのことが廃れない。

 こういったことをこそ、政令が行われて風俗は美なりと言うのだ。このような状態となれば、守れば固くて攻めれば強く、居れば名声が高まり動けば功績が挙がる。そして、これこそが、儒の曲弁というものであるのだ。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■最初の傷国の項目全部に、いや大国という記述以外の全部に当てはまる会社を、とてもよく知っている。このように、荀子の言っていることは、会社とか(以下略)

■天の時、地の利、人の和の意味が分かった。誰だ?こんな荀子とかけ離れた解釈をする人間は?これは、多分だけど、易経か、占い関係の本から抜粋した言葉であろう。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1095107660
▼正しい荀子の三才思想は、この王覇の最終章にも書かれているように、至極簡単なことであるのだ。つまり、天の恵みを得ることができれば農作物が育ち、農作物が育てば万物が育まれて地の利を得ることができ、地の利を得て万物を利することができれば人はそのことを喜んで和することができる。▼この、天の時、地の利、人の和という言葉だけが独り歩きしてしてしまって、かなり本当の意味が失われているようである。▼今、これについて調べてみたら、元は孟子の「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」というのらしい。いや、孟子には悪いけど、荀子の解釈の方がはるかに正しい。つまり、天の時を得ずして地の利を得ることはできず、地の利を得ずして人の和を得ることなどできないのである。儒家の大家たる孟子が本末転倒するとは…。これは文脈とかで言い訳できるレベルではないように思う。。…少し調べてみたが、「天」の捉え方がだいぶ違うようである。荀子の「天」とは自分でだぐり寄せる「天」である。孟子のは、どうも、運みたいなことを言っているようだ。だが、運とは自分で引き寄せるものであるのだ。