84.荀子 現代語訳 富国第十 五章-中

 天下の皆で心配するべき様な心配事は乱れて傷つけられることである。どうして、天下を乱れさせる元となっている者が誰なのか、皆で共に考えようとしないのか。

 私が思うには、墨子の音楽を非とすることなどは天下を乱すことであるし、墨子の質素倹約などは天下を貧しくするものである。墨子の説は、直接に天下を乱して傷つけるようなものではないのだけど、理論的にこれを考えれば、そうだと思われても仕方がない説である。

 もしも仮に、墨子が大きい方では天下を保ち、小さい方では一国を所有したならば、必ずや、物足らない様子で、粗末な着物に身をまとい、粗末な食事を食べて、憂えた様子で音楽を非とするであろう。このようであるならば、やせ細ることとなり、やせ細れば欲が満たされることなどなく、欲が満たされることがないのなら表彰が行われることもない。

 もし仮に、墨子が大きい方では天下を保ち、小さい方では一国を所有したならば、墨子は必ず人手を減らして、役人や役職を省いて、功績ばかりをよいものとして苦労し、百姓の仕事と役人の事業を同列に扱い、その功労も等しいものとしてしまうであろう。

 こうなってしまうと、威がなくなってしまう。そして、威がなければ罰を行うこともできない。さらに、表彰も行われないのだから賢者が立派な地位に就くこともなく、罰が行われないならば不肖者も退けられることがなくなる。賢者が進むこともできなくて、不肖者が退けられることもないのなら、才能ある人とそうでない人、両方が役人となることができなくなる。

 このようであるならば、万物はその宜しき所を得ることができず、時期に応じて変化させることについても適切な対応ができるはずもなく、上は天の時を失い、下は地の利を失い、中は人の和を失うこととなって、天下は、火が燃え盛って焦がされてしまっているかのようになるであろう。

 こういった状況の中で、墨子がこの状況を救おうと、粗末な着物を身にまとって、固い縄を帯にして、まめがゆをすすって、水だけを飲んだとしても、墨子の節約によって余ったものでは、焼け石に水でしかない。これがどうしてかと言うに、墨子は、既にその根本のことを切り倒して、原っぱを作って天下を焦がしてしまっっているからなのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■感服する。未だかつて、これほどまでに、物事の道理、特に治まることの道理を明明然に説明し得た者がいるだろうか。

■天の時、地の利、人の和は、三国志で諸葛両孔明が言うセリフで、有名なのだけど、ここから来ていたのかと思った。というか、荀子易経の話を出さないけど、この言葉を出しているということはやはり易経をかなり読んでいたということではないか。まあ、この部分が後家の挿入である可能性もあるのだけど。