85.荀子 現代語訳 富国第十 五章-後

 だから、先王や聖人はこういった無闇な質素倹約はしない。人の上に立つ者が粗末な格好をしているようでは民衆を一つにすることはできず、真の富たる智恵が厚くなければ下々を管轄することはできず、威風がなくて力もないならば強暴なことを禁じて暴虐の人に勝つことはできないのである。

 だから、必ず荘厳なオーケストラによる音楽でその耳を満たし、必ず美術品と工芸品によってその目を満たし、必ず肉野菜穀物の揃った芳しい食事でその口を満たし、こうしてから、多くの人を雇って、役職を備えて、表彰を進めて、刑罰を厳しくして、自分自身の心をも戒める。

 このようにして、天下の民衆が欲しいと願っていることがすべてここにあることを知らしめることにより、その表彰も有り難いものとなるのだ。また、天下の民衆が恐れていることがすべてここにあることを知らしめることにより、罰に威が備わるのだ。

 表彰が行われて罰に威が備われば、賢者も進むことができ、不肖者も退くことができ、才能のある人とそうでない人が役人となることができる。このようになるならば、万物はその宜しき所を得て、物事は事変に応じて適切に処理され、上は天の時を得て、下は地の利を得て、中は人の和を得ることができる。このようになれば、財貨は泉から湧くようにあふれ出てきて、それが川や海のようになり、がさがさと積みあがって山のようになり、焼いて処分しないと保管する所がないほどになる。どうして皆で足らないことを心配する必要があろうか。

 だから、儒術が誠に行われるのならば、天下は豊かになって富んで、安心して苦労がなくなり、楽器を鳴らして和することができるだろう。詩経 周頌・執競篇に「太鼓の音が鳴り響き、笛の音は高らかに、福が大きく多く降り積もる、威儀も立派で心落ち着き、この福楽に酔いしれて、この福楽に飽きるほどに」とあるのはこのことを言ったのである。

 だから、墨術が行われることとなれば、天下は倹約を尊いこととしているのにいよいよ貧しくなり、戦うことを拒否しながら日々に争うこととなり、苦労して憔悴しているのに功績が挙がることがなく、ものうげでさみしげな様子で音楽を受け入れずに和することもない。詩経 小雅・節南山篇に「天は病んで病を重ね、混乱ばかりが広がって、民に福楽訪れず、混乱貧窮やむことがない」とあるのはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■重要なのは、適宜性というものであろう。荀子の原文だと、王たるべき人がかなり贅沢をすべきように書かれているように見える。しかし、この王たるべき人の贅沢は、現代において、普通の人の生活水準と同じくらいと思われる。だから、現代で、上に立つ人が無理して贅沢をする必要はない。普通位の生活をしていればいい。というのも、現代で崇拝や羨望の対象となるのは、無闇に物質的に贅沢な暮しをする人でなく、逆に農村でゆっくり暮らす人であることすらある。このあたりのことは、道徳感情論の適宜性(プロプアテイ)についての辺りと比較して、じっくりと考えなければならない。荀子の意見を文字通りに読みとると、庶民出身で財力の無い、菅氏、野田氏、オバマ氏などは、世の中を乱す公患の元凶ということになる。しかし、事実はそうでなくて、現在は過度な贅沢をする人の方が、より多くの人から嫌われ、崇拝されないのである。