86.荀子 現代語訳 富国第十 六章

六章

 事業をすることをやめて民衆を養い、民衆を懐けて従わせてバラマキ政治を行い、冬の日には温かいおかゆを作って、夏の日には瓜と麦粥を与えて、しばらくの間だけ誉れをかすめ取ろうというのは、盗みの道というものである。このような施しを行えば、確かにしばらくの間だけ、ずるい民衆から誉れを得ることはできようとも、これは決して長久の道ではない。事業が成就することもなく、功績が挙がることがないだろう。これは、姦治(ずるい政治)というものである。

 船を漕ぐように先ばかりを焦って民衆を務めさせ、事業を無理に推し進め、恥も外聞もない有様で民衆が憔悴することに何のためらいもないならば、事業がいくら進んでも百姓はこの政治を憎むこととなる。これは偸偏(邪悪な盗み)というものである。はじけて壊れ落ちて、必ずかえって功績が挙がらないだろう。

 こういったわけであるから、事業をしないで誉れを得ようとばかりすることも不可であり、事業を成功させようと民衆の気持ちを察しないことも不可なのである。

 だから、古の人は決してこのようなことはしなかった。民衆が、夏場は暑さで倒れることがないようにし、冬場は凍えることがないようにして、急な仕事をする時も力を損なわない程度にし、かといって緩く仕事をする時も間に合わないということがないようにして、このように緩急を心得ることで、事業を成功させ功績を挙げて、そうして、結果として上下が共に富むこととなり、百姓は、皆上のものを愛することとなるのである。

 人がここに寄り添うことは流れる水のようで、人がここに親しみ喜ぶことは父母の元に居るかのようで、ここのために死をもいとわないことには他の理由などない。ここが、忠信調和均弁の至りであるからである。

 だから、国の君主として民衆の長たる者が、民衆に功労を求めるとき、調和と公平を旨として功労を求めるのなら尻をたたいてせかすよりも速く事が行われ、民衆のためであるという真心が信じられて扱いも公平であるならば、敢えて表彰するよりもその事を喜び、必ず自分のことを正し修めてから、少しずつ相手のことを責めるならば、実際の罰を与えるよりもその人に威を感じるのである。★(和調累解せば急疾するよりも速やかに、忠信均弁なれば賞慶するよりも説び、必ず先ず其の我れに在るものを修正して然る後に徐に其の人に在るものを責むれば刑罰するより威(おそ)る)

 この三つの徳が上の者に誠に備わっているならば、下の者がこの人に応ずることは、影や響きのようなものである。名声が世に明らかにならないようにしようとしても、そうすることができようか。書経・康誥篇に「君主が事業をはっきりと明確にするならば、民衆は、力を尽くして和らいで迅速に奉仕する」とあるのはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■昔からバラマキ政治というのはあったということだろう。また、どうしてバラマキ政治が駄目なのかということも荀子は明らかにしている。つまり、バラマキは、その場しのぎでしかなく、国民に永続的富をもたらすものを結局のところはもたらさないのである。この基準を用いて、いろいろなことの是非を判断できるかもしれない。バラマキは、韓非子に言うところの「仁政」(施しの政治)であろう。

■人を使う場合、または人の上に立つ者として、または人と接すること全般において、最も重要な術が書かれていたので、★印にして原文も併記しておいた。この通りにするならば、また、この通りにできるならば、本当に自分の思った通りに人を動かすことができるようになるだろう。この言葉の価値が分からない人は、人と接することに関する感覚が一切ないかもしれない、とさえ思うほど良い言葉であると思う。