礼義と礼楽について

荀子を読んでいると、礼義と礼楽という言葉がよく出てくる。

ちなみに、礼義と礼儀は違うものである。礼儀とは、義に人偏がついていることからも分かるように、人が行うことであり、礼儀というと、形式的な作法や儀式のことを意味しているのである。

だから、礼というものは、礼儀とは違うものなのである。

この言葉の違いを始めに理解してもらわないと、これから私が書くことも、ほとんど意味のないものになってしまう。まず、礼とは、形式的な作法や儀式でないということを了承していただきたい。

それで、この上で礼とは何か。

ということなのだけど、礼とは人間の行動規範のことである。また、礼とは時代によって変化するものでもあるし、郷に入りては郷に従えとあるように、土地によって変化することもあるだろう。それで、行動規範とはどういう意味なのか、というと、「その時と場所において最も適切なもの」ということになる。アダムスミスの言葉を借りるなら、適宜性(プロプアテイ)であり、多くの人が賛同し同情できることである。

これで礼というのは何か、少し分かって頂けたものとして、次には、礼義とは何で、礼楽とは何か、ということである。荀子の現代語訳をするに当たって、最初のころは、礼と義とか、礼と楽といったように二つのものとして訳出していたのだけど、これは間違いであった。

礼義とは、自分から行って残す行為において、適宜性を得るためのものである。正義と言う言葉を使うなら、皆から正義と思われるような行動や処置をすれば、後々になって、そのことが原因で自分の名誉や利益が損なわれることはないであろう。こういったときに用いられる礼を総じて礼義と言う。こういったものであるから、ある意味自分本位であり、このために角のある四角が連想されるものでもある。

これに対して、礼楽とは、自分以外の誰かと自分との間で適宜性を得るためのものである。楽とは楽しむことであり、儒学で楽というと音楽のことであるのだけど、実は、この音楽というのは、人と和して楽しむことを目的としているのである。だから、人と調和を取るために用いられる礼を総じて礼楽というのである。そして、こういったものであるから、角の無い円形のものが連想されるのである。

この二つの礼をよく荀子は峻別したものだと思う。つまり、礼は礼でも礼義ばかりを用いていると、それ自体は悪いことで無いにも関わらず、多くの人との間に不和が訪れるであろう。それは、決まりにいつも従うタイプの人を連想してもらえば、なんとなく分かっていただけると思う。

だが、これとは逆に、礼楽ばかりを用いている人は、いかに不和が訪れなくても、けじめがなくてのんべんだらりとしてしまう。これは当然のことで、多くの人と和すということは、自分を少なからず妥協するということであり、自分を少なからず妥協すれば、少なからず義に反することとなるのである。

こういったわけであるから、礼義と礼楽を認識して、使い分けたり、どちらか一方に偏ることがないようにしなければならないのである。だから、荀子はこの二つの言葉を使うことをして、内容を少しでも正確に伝えようとしていることになる。