103.荀子 現代語訳 王覇者第十一 十五章

十五章

 国を治めている者が、百姓の力を借りることができるなら富み、百姓が死を厭わないようになれば強く、百姓から栄誉を讃えられれば栄える。(国を用いる者にして、百姓の力を得る者は富み、百姓の死を得る者は強く、百姓の誉を得る者は栄ゆ)この三徳が備わっているならば天下もここに帰することとなり、三徳がないのならば天下はここを去ることとなる。天下がここに帰することを王と言い、天下がここを去ることを亡と言う。

 湯王と武王は、その道に従ってその義を行って、天下において共通の利益を興して、天下において共通の害悪を除いて、天下もここに帰することとなった。だから、徳音を厚くして天下を先導し、礼義を明らかにして天下を道に則らせ、忠信を致してこれを愛して、賢者を尊び能力者を使ってこれに序官し、爵録と表彰によってこれを重ねて、事業は時に適うようにして仕事も必要最低限にしてこれを調整し、堂々とした様子で全てを兼ね覆って養うことは赤子に接するかのようにして、民衆を養っては寛大で接し、民衆を使っては道理に適い、政令や制度が下の人百姓に対して行われる理由をしっかりと理解して道理にそぐわないことが髪の毛ほどでもあるのならば、孤独で力ない人にも必ずこれが及ばないようにする。

 こういったわけであるから、百姓がこれを貴いとすることは帝のようで、これに親しむことは父母のようで、これのために死を厭わなず不義不忠に生きようとしないことには他の理由などない。つまり、道徳が誠に明らかとなって、利益の恩沢が誠に厚いからである。

 乱世はこのようではない。汚らわしい行為と傲慢と思いつきと盗みによってこれを先導し、権謀術数と傾けて覆すような行為によってこれに示し、俳優や小人の芸人や婦女の願いを聞き入れてこれを乱して、愚者によって知者に命令させ、不肖者を賢者の上に立て、民衆を養っているのに民衆は貧しく行き詰っていて、民衆を使うたびにこの上無い苦労をすることになる。

 こういったわけであるから、百姓がこれを賤しいとすることは蝮のようで、これを憎み嫌うことは鬼のようで、日々に隙を見つけて力をあわせてこれを投げ飛ばして踏みつけて放逐したいと願っている。急に敵から攻められて百姓に自分のために死んでほしいと思ったところで、そのようなことが実現するはずがない。そのようなことは、理論としてあり得るわけがない。孔子が「自分が人の所に行く理由についてよくよくしっかりと考えるのは、それは人が自分の所に来たいと思う理由と同じだからである」と言ったのはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■長々と書かれているけれど、この章、いやもとい荀子の王道で最も重要なことは、「恕」に他ならない。「己の欲せざる所人に施すことなかれ」「夫子の道は忠恕のみ」▼誰だって、騙されれば腹が立ちその人のことを憎むであろう。誰だって、筋違いに虐げられればその人のことを憎むであろう。誰だって、何も自分のことを気にかけてくれないならばその人のことを忘れてしまうであろう。誰だって、おかしな扱いを受ければその人から離れ、良くされればその人を離れない。そんなに難しいことではない。