140.荀子 現代語訳 正論第十八 八〜十章

八章

 宋先生(子宋子)は、「侮られることは恥とするに足らないことを明らかにできれば、人を争わせないようにできる。人は皆な、侮られることを恥とするから争う。だから、侮られることが恥じるほどのことでないと知るのならば、争わなくなるのだ」と言う。

 これに応じて、宋先生の教えに従っている人に「そうであるなら、人の情は侮られることを嫌うのか」と尋ねてみると、

 「人の自然な情は、侮られることを嫌っているけど、恥とはしないのだ」と答える。

 このようであったなら、必ず、求めること(人を争わせないこと)を達成することはできないだろう。なぜなら、人が争うときは、必ずその嫌い憎んでいることを持論として述べて、その恥を受けていることを理由としているとは限らないからだ。

 今、滑稽を演ずる俳優や道化や戯言師を見ていると、言葉で侮蔑され侮られたとしても争うことはしない。けれども、この人たちが、侮られることを恥とすべきでないと弁えているかというと必ずしもそうではない。そうであるならば、争わないのは侮られることを嫌わないからなのである。

 今、家に忍び込んで、牛や豚を盗む者がいたとしたら、剣や戟を持ちだしてこの人を追いかけ、自分の死やけがを顧みることがないほどとなる。こういった場合、牛や豚が盗まれたことを恥としているのだろうか。そうであるならば、争うことを憚らないのはそれを嫌っているからなのである。

 侮られることを恥としていても、これを嫌う心が無ければ争うことはないし、侮られることを恥とすべきでないと弁えていたとしても、これを嫌う心があれば争うこととなる。こういったわけで、争うのか争わないのかは、恥じるのか恥じないのかにあるのではなく、嫌い憎むのか嫌い憎まないのかにあるのである。

 人は侮られることを嫌い憎んでいて、このことによって争いが起きるのに、今、宋先生は、このことを解決しないで、人に侮られることを恥としないようにと説いている。これは誤りのうちでもなんと甚だしいものであろうか。口先さわやかに弁舌鋭く説いたとしても何も益するところがない。

 もしもこれが無益なことを知らないということであれば不知であり、無益であることは知っているのに人を欺いているということであるのならば不仁であるということになる。不仁と不知ではこれより恥ずかしいことはないだろう。まさに人に益するところがあると思っているのに、それは全て人を益することがないのである。大恥をかいて退くしかなく、これより病んだ説はないとも言える。

九章

 宋先生は、「侮られても辱としてはならない」と言う。

 これに対して論じよう。そもそも議論というものは、必ず隆正(最も貴ぶべき正しいこと、中正標準)を立てることができてから、その後でよしとすることができる。隆正が無かったら是非が分かれることもなくて、弁論も訴訟ごとも決することができない。

 だから、聞くところによると、「天下の大隆と言うべき者は、是非の境目を決するもので、役目を分けて名や現象が起こるところであり、王政こそがこれであるのだ」と。こういったわけで、ほとんどの議論や名号は、そのすべてが聖王を模範としているのであり、聖王とそうでないとの分かれ目が栄辱ということになる。

 栄辱には、またそれぞれに両端がある。志と思いが修まっていて徳行に厚く智慮が明らかであるならば、これは中から出てくる栄というもので、これを義栄と言う。爵列は尊くて受け取る禄は厚く権勢もあって、上では天子や諸侯となって下では卿や士大夫となるのならば、これは外から至り来る栄であって、これを勢栄と言う。

 悪に流れて汚れて慢心し、己と人の分限を犯しては道理を乱して、驕り暴れて貪欲であるのなら、これは中から出る辱であって、これを義辱と言う。ののしり侮られて髪の毛を引っ張られて叩かれ、鞭打ちや足切りの刑に遭い、切断やはりつけの刑にされ、縛られて猿ぐつわをされるようなことは、外から至る辱であって、これを勢辱と言う。

 だから、君子は、勢辱があっても義辱があることはなく、小人は勢栄があっても義栄というのはない。勢辱があっても堯となるのには何の差支えもなく、勢栄があっても桀となるのに何の差支えもない。

 義栄と勢栄とは、唯一君子となってそうして初めてこれを兼ね備えることができるし、義辱と勢辱とは、唯一小人となってそうして初めてこれを兼ね備えてしまうこととなる。これが栄と辱との分かれ目というものである。聖王はこれを法として、士大夫はこれを道として、役人はこれを守って、百姓はこれによって習俗を成して、これは万世に渡っても変えることのできないことである。

 しかし今、宋先生はそうではない。一人自分だけ身を屈して、自分一人のためだけに一朝一夕にこれを改めようとしている。そのような説が行われるはずはない。これを例えみれば、丸めた泥で河口を塞いで、こびとが泰山を頭に被せようとするような話であって、またたく間につまづいて砕け散ることとなるだろう。宋先生を善しとしている弟子たちは、それをやめた方がよいであろう。そのうちに恐らくは、体をも傷つけることとなってしまう。

十章

 宋先生は「人の情は少ないことを求めている、それなのに、皆が自分の情は多いことを求めているのだ、とするのは過ちだ。だから、その群徒を率いてその論説を弁じてその例えを明らかにして、そうして、人の性情が本来は少ないことを求めていることを知らせようとするのだ」と言っている。

 これに応じて、宋先生の説を信じる人に、「そうであるなら、また人の情は、目は美しいものを求めず、耳は美しい声を求めず、鼻はいいにおいを求めず、口は美味いものを求めず、体は安逸を求めないということになる。この五つの美を求めるのは、人の情として備わっていないのか」と尋ねてみる。

 すると、「人の情はこれを欲してはいるけれど、それ以上のことを願っているわけではない、だから人の情は少ないことを求めているのだ」と言う。

 このようであるならば、この説が行われるということはないであろう。人の情が、この五つの美を求める心を備えていながら、それでいて多いことを欲しているわけではないと言うならば、これを例えてみれば、富を欲しているのに財貨を欲しないで、美人を欲しているのに絶世の美女である西施を嫌うことと何の変わりもないのである。

 古の人は、このことに関してそのように考えてはいなかった。人の情は多いことを欲して少ないことを欲しないとして、この故に、賞するときは富厚を用いて罰することには殺損を用いた。これは百王で同じことなのである。この故に、上賢は天下を禄として、次賢は国を禄として、下賢は田や村を禄として、正直で素直な民衆は衣食を全うしたのである。

 今、宋先生は、人の情を少ないことを欲しているとして、多いことを欲していないとする。そうであったら、先王は、人の欲していないことで人を賞して、人の欲していることで人を罰したとでも言うのか。乱れはこれより大なることはない。

 今、宋先生は、厳かな様子でこの説を好み、生徒を集めて師と学生を立て多くの文典を作っている。けれども、この説では至治を至乱にしてしまうことさえ免れることができない。この誤っていることはなんと甚だしいことであろうか。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■八・九章は一貫している。栄辱には、それぞれに義によるものと勢(形勢・そのときの外的要因)によるものとの二種類があり、合計して四種類(義栄・義辱、勢栄・勢辱)があることになる。だから、これを混同してしまうと、義のために争わないことが考慮されずに、義のために争うことすら勢のために争うことと同一視され、義の観点からすれば恥とするに足らないことも、勢いの観点からの大恥と同一視されてしまう。こうして、「侮られることを恥としなければ争わない」とか、「侮られることは恥とするほどのことではない」といった邪説が生まれているのである。要は、「義の観点からして争うに足ることなのか」「義の観点からして侮られたら恥とすべきなのか」ということが重要なのである。

■十章に至っては、宋先生もあの世で恥じ入っていることだろう。だから、宋先生はこのように説くべきだったのである。「人の情は多いことを求めているけれど、少ないことしか求めないのが理想であり、もしも、少ないことを求めるだけで皆が満足するのならば、世の中での争いはもっと減る」と、しかし、それを「そもそも人は少ないことを求めているのだから、その本性に立ちかえれば世の中の争いはもっと減る」としたから駄目だったのだ。結果と目的は同じであるけれど、その理論はおかしい。だから、ここで荀子に大恥をかかされていまったのだ。