139.荀子 現代語訳 正論第十八 六・七章

六章

 世間で説を展開する者の中には、堯や舜は教化することができなかったと言って、それがどうしてかと問うてみれば、朱や象(彼ら自身の子弟)すら教化できなかったではないか、と言うけれど、これはそうではない。

 堯や舜なる者は、至って天下を善く教化した者であった。政治を執って天下の事を聴けば生きている民の類は、振動従服してこれに帰順しないということはなかった。そうであったのに、朱や象が独り感化されなかったのは、堯や舜に非があるのではなく、朱や象に罪があるのだ。

 堯や舜は天下の英華というものであって、朱や象は天下でも奇怪なつまらない小さいものである。今、世間で説を展開している者は、朱や象を怪しむことをしないで堯や舜を非とする。これは誤ることどれだけ甚だしいことだろうか。こういったものを嵬説(あやしくてごつごつした説)と言う。

 ゲイとホウ門とは天下で最も善い弓使いであったけれども、反り返った弓と曲がった屋を使っていては小さな的に矢を当てることはできないし、王梁と造父はてんかでも最も善い車の乗り手であったけれども、あしなえの馬と壊れた車を使っていては遠くに到着することなどできないし、堯や舜も天下で善く教化を為す者であったけれど、奇怪なつまらない者を教化することはできない。

 いつの世にも奇怪な者(嵬)はいるし、いつの世にもつまらない者(瑣)は居る。太古の昔、神話の時代から、こういった者はいたのである。

 だから、こういった俗説を考え出す者は不祥であって、これを学ぶ者は殃害(災難)を被り、これを非とするのならば福慶を受けることになる。詩経 小雅・十月之交に「下民の わざわい天より 下るにあらず 口を動かし 陰では憎んで そうしてこうする 人に由るのだ」とあるのはこのことを言ったのである。

七章

 世間で論説を展開している者の中には、太古は薄葬であった。棺桶の厚さは三寸で、死人にあつらえる服は三揃いだけで、埋葬の土地も耕作に影響が出ないところにする。だから盗掘されることがなかったのだ。乱れた今では厚葬して棺桶を飾る、だから盗掘されるのだ。と言う者がいる。

 しかし、これは治道に全く及んでいなくて、盗掘すると盗掘しないとの道理をしっかりと考察していない者の言うことである。

 そもそも、人が盗掘しようとするときは、必ず何か自分のためにするのである。よって、不足が無いのに盗みを働くのなら、さらに余裕を蓄えようとすることになる。その上で、聖王が民衆を養う道は、皆に富厚優猶で足ることを知らしめ、余裕も度を過ぎることがないようにする。

 こういったわけで、泥棒も盗まないし賊も取ろうとしない、豚や犬でも穀物を吐き捨てるほど食べ物が豊富になって、農夫も商人も財貨をお互いに譲るようになり、風俗が美しいことは、男女が思いつきやその場の勢いで交際することもなくなって、百姓は落ちている者を拾うことさえ恥じるようになる。こういったわけで、孔子は「世の中が変わればまず最初に盗人から変わる」と言ったのである。

 宝石が体に散りばめられて、美しい刺繍が施されものが棺桶一杯で、さらに黄金で満たされてる。これに加えて赤い砂や青銅によって飾られて、犀角や象牙が樹木のように立ち並び、数々の美しい宝石がその樹を飾る実のようであったとしても、人がこれを盗掘しようとしないのはどうしてであるか。それは、利益を求めて危険を踏もうという心が緩やかであるのに、分限を犯す恥を大なるものであると心得ているからである。

 こういった有様であったのに今になってから、乱れて変わってしまったのだ。上は無法によって人を使い、下は無度によって行い、知者も思慮することさえできず、能力者も治めることができず、賢者も人を使うことができない。このようであるならば、上は天の性情を失い、下は地の利を失い、中では人の和を失う。そうなると、百事が廃れることとなって財物は尽き果てて禍乱が起こり、王公は上で不足することを憂えて、庶民は凍え飢えてその死体が積みあがることとなる。

 このようになると、桀や紂のような者ばかりが群居することとなり、盗賊も奪うために攻撃して上を危うくし、必ず禽獣の行いや虎狼の貪欲が起こることとなって、大人をも干し肉にして食べて赤子でも焼き肉にすることになる。このようであるのに、人の墓を盗掘してその死体の口を裂いてでも利益を求める者を、どうやって咎めることができようか。裸にして埋めたとしても掘り返されることになるだろう。これでは埋葬することすらできない。彼らはその肉を喰らって骨を噛もうとしているのだ。

 盗掘すると盗掘しないとの理屈はこういったことである。だから、太古は薄葬であったから盗掘されず、乱れた今では厚葬であるから盗掘されるのだと言うのは、これはただ、姦人(ずるい人)が自身の過っている説をによって、愚者を欺いて、泥沼に落とし込んで利益を盗み取ろうとするようなことなのである。こういったことを大姦と言う。言い伝えに「人を危うくして自分は安心して、人を害して自らを利する」とあるのはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■悪い奴が悪いのであって、悪い奴をどうすることもできないことは、悪いことではない。特にごくまれに、本当にどうすることもできない人というのも居るということであろう。

■利益を得たいから、またはなんらかの愉快を味わいたいから、盗みをしたり犯罪を犯したりすることとなる。だから、そういった犯罪や盗みを行うことの利益や愉快よりも、それをしないことによる利益や愉快を知ることや、知らしめることに越したことはない。