19.学問のすすめ 現代語訳 四篇 第六段落

第六段落

 このように考えてみると、これから我が国の文明を進めるためには、まず人心にすっかり染みついているかの気風を一掃しなければならい。これを一掃することは、政府の命令では難しいし、個人的な論説を用いても難しい、必ず人に先だち個人的に何かの事を行って、人民がよりどころとできるような手本を示す人が必要である。

 この手本を示す人物を探してみると、農業の人でもないし、商人でもないし、また和漢の学者でもなくて、その任に当たるべき人は、ただ一種の洋学者流の人であると言えよう。そうではあるけれども、この人たちに頼ることができない事情もある。

 最近、こういった人はやっと世の中に増えてきて、外国語を読んだり翻訳されたものを読んだりして、専ら力を尽くしているように見えるのだけど、この学者たちは、字は読めるのだけど意味を分かっていないのか、または、意味は分かっていてもそれを実行に移そうと思う誠意がないのか、その行動には私が疑いを持つものが少なくはない。

 というのも、これらの学者や士君子は、公務は知っているのだけど私事というものを知らず、政府で上に立つやり方は知っていて、政府の下に居るという道を知らないと思われるからである。つまるところ、この人たちは、旧来からの漢学者の悪習を免れていないのであって、あたかも体は漢で、着物だけ洋という有様なのだ。

 試みに、このことについての実例を挙げてみる。このかた、世の洋学者は概ね皆政府で公務に就き、個人的なことを行っているものは指で数えるほどしかない。しかし、この政府にいる理由が、利をむさぼろうと言うものではないのだけれど、昔から受けている教育(儒学)の影響で、ただひたすらに政府に居ることにこだわり、政府に居なければ何も事を行えないかのように錯覚し、この政府に頼ることで昔からの青雲の志(出世のこと)を遂げたいと思っているのである。

 あるいは、世間でも名声のある大家と言われるような先生であってもこの範囲を越えることができず、その行動は非難されるべきもののようであるけれども、その真意は深くとがめ立てられるようなことではなく、つまり、悪い心でそのような行動をしているのではなくて、ただ世間の気風に酔ってしまって自分でも気が付かずそのようにしているだけである。名声のある士君子でさえもこのような有様なのである。天下の人がどうしてその風に乗ってしまわないということがあろうか。

 青年の学生は数冊の本を読めばすぐに政府で勤めることを志し、有志の町人は数百の本金を持つとすぐに政府の名を借りて商売を行おうとし、学校も政府の許しが必要で、説教も政府の許しが必要で、牧畜も政府の許しが必要で、十のうちの七か八までもが役人の関わっているものなのである。

 こういったこともあって世の人はますますこの風になびき、役人を慕い役人を頼み、役人を恐れ役人にへつらい、少しも独立しようという気持ちが現れる者がいなくて、この醜態は見るに堪えないものがある。

 たとえば、最近出版されている新聞や上書建白(政策立案・政策要望)もこの類のものである。出版の条例が厳しいというわけではないのだけども、新聞を読んでみると政府の面目を落とすようなことは一切書かれていないばかりか、政府役人にほんのちょっとした美事があればやたらこれを称賛して大げさであり、これはあたかも水商売の女が客に媚びているかのようである。

 また、上書建白を見てみると、その内容は卑屈を極めて、みだりに政府を崇拝する様はあたかも神に接するようで、さらには自分を罪人のように取扱い、同等な人間世界には存在しないような虚文を使い、全くもってこれを恥と思ってないようである。この文を読んでその人がどんな人か考えてみると、単なる狂人としか思えない。

 しかし、今、新聞紙を出版したり政府に建白する者は、おおむね皆、世の中の洋学者流なのであって、その私事を見てみると決して水商売の女のようではないし、狂人でもない。

 ただ、その不誠不実が、このような甚だしいものになる理由は、まだ世間に民権について唱えるということの実例が無いからであって、例の卑屈な気風に制せられて、またその気風に雷同して、国民の本色を現すことができないからである。

 こういったことから、日本には、ただ政府だけあっていまだに国民というものが無いとも言える。だから言うのだ、人民の気風を一洗して世の中の文明を進めるためには、現在の洋学者流にもまた頼ることができないと。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■「人民」という言葉は最近では中国人を揶揄する時くらいしか使われないし、今まで、これをどう訳そうかと思って、結局人民のままにしておいたのだけど、そうしておいて良かったな、と思った。一度だけ、国民と訳した所もあったのだけど、ここを読んでみると、福沢には、人民と国民の違いにこだわりを持っているようで、人民は「日本に居る人」で、国民は「明治政府の本で独立の意義を保っている人」ということのようだ。


要約

 この気風をなんとかするためには、皆の手本となる人が必要である。そして、この手本となるべき人は、洋学者流であると言えよう。しかし、この人に簡単には頼れない事情もある。というのも、儒学などの影響で、洋学者流の多くが、政府に頼らなければ何もできないと思っており、また政府に仕えることでしか出世できないと思っているからである。

 こういったこともあって世の人はますますこの風になびき、役人を慕い役人を頼み、役人を恐れ役人にへつらい、少しも独立しようという気持ちの現れる者がいなくて、この醜態は見るに堪えないものとなっているのである。これは、新聞や政府への意見書を見ても分かることで、それらを書いている洋学者流が、あたかも客にこびる水商売の女か、人を神とあがめる狂人のように思えるほどである。

 このようになってしまう理由は、まだ世間に民権について唱えるということの実例が無いからであって、例の卑屈な気風に制せられて、またその気風に雷同して、人民としてでなくて国民としての本色を現すことができないからである。これらの理由で、現在の洋学者流に頼ることはできない。