43.学問のすすめ 現代語訳 十編 第一段落

全編の続き、中津の旧友に贈る

 全編に学問の旨を二つにわけてこれを論じたが、その議論についての概要を言うと、人たるものはただ一身一家の衣食を満たして、それで自分で満足してしまってはならず、人の天性には、なおこれよりも高い約束があるからには、人間交際の仲間に入って、その仲間の身分になることによって、世のために勉めないところがないようにしなければならない、というものであった。

第一段落

 学問するのならその志は高遠でなければならない。飯を炊いて風呂の火を焚くことも学問である。天下の事を論ずることもまた学問である。そうではあるけれども、一家の世帯のことは簡単で天下の経済のことは難しい。おおよそ、世の中のことはこれを得ることが簡単であるならば貴いものとはいえない。貴いものが貴いものである所以は、それを得るときの手段が難しいことにある。

 個人的な意見としては、今の学者がその難しいことを棄てて簡単な方につくような弊害に似ているように思う。昔封建社会だったころは、学者は所見がないというわけではなかったが、世の中のことがほとんど封建社会として完成されていたために、その学問を施すところがなかったからには、やむを得ず学んだ上にもまた学問を勉めて、その学風はとても良いものとはいえなかったにしろ、読書して勉強して、その博識であることは今の人が及ぶところではなかった。しかし、今の学者はそうであってはならない。学んだところがあったのなら、これを実地に施さなければならない。

 例えば、洋学を学んでいる学生は、三年勉強したのなら、一通りの歴史や科学について知ることができ、そうであるならば洋学教師であると言って学校を開くべきであり、または人に雇われてこれを教えるべきであり、または役人となって政府に仕えて大いに用いられるべきである。

 さらにこれよりも簡単なこともある。現在流布されている翻訳本を読んで、世間で奔走して内外のニュースを聞き、機が熟したら役人となればそれでれっきとした役人となることができる。このような有様で社会の様子が形成されていくならば、世の中の学問は遂に高尚に進まないということはないであろう。

 この言い方はあまりにも卑劣であって、学者に向かって言うようなことではないけれども、銭の勘定でこのことを説明しよう。学塾に入って就学するためには一年当たり百円の費用がかかるに過ぎず、三年で三百円の元金を払うことによって、そうして月に五、七十円の収入を得るというのが、洋学生の商売と言うものである。先ほど述べた耳だけの学問で役人となる者に至っては、この三百円の元金すらないのであるから、その得る収入は全て利益ということになる。この世の中にこれほど利回りのいい商売があるだろうか、高利貸しと言ってもこの利益の高さに全く及ぶことができない。

 そもそも、物価は世の中の需要の多寡によって高低が決まるものであって、最近では政府をはじめとして至る所で洋学者流が求めらること急であるため、この相場の景気の良さができているのであって、こういった計算をする人をずる賢いと咎めるわけでもなく、学問を買う人を愚かであるとそしるわけでもなく、ただ、自分の見解としては、この人に、なお三、五年の苦労を忍んで真に実学と言うべきものを勉強させてのち、仕事に就かせるかせることができるならば、大いに成すところがあると思うばかりなのである。そうであってこそ、日本全国に分布している智徳が力を増して、そうして始めて西洋諸国の文明と矛先を争うことができるのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■苦労して得た学問ならば、それが勘定という見地からも保証されていることが分かる。これは現代でもほぼ変わりないことと思うが、昨今の田中真紀子発言も含めて、それがそうでもなくなってきている部分はあるように思う。苦労して勉強しても、それが生かされないのなら、学生も学問をせず遊び呆けるだろう。需要のある学問と、本当に必要な学問、これらが今問われるべきなのかもしれない。