荀子の王道

 今までの、私の行動の原理というか、行動の根幹には、孫子への信奉みたいなものが少なからずあったように思う。具体的に言うと、計算、数化への信奉とも言える。孫子を読んだ回数は、最低でも20回、古典という古典で初めて読んだものも孫子だった。とにかく、孫子に書かれていることは全てシビれる。最強だと思っていた。孫子の兵法を最低限の単語で顕してみると、理論・効率・観察・計算・客観であると思う。

 だが、荀子の議兵篇を読んでから、荀子の方に傾いている。荀子の兵法の方が強く、孫子の兵法よりも上と思い始めたのだ。だが、荀子の兵法がなんであるのかを私はしっかりと理解できていない。この迷いが自分の中で生じているのではないかと思い始めた。荀子の兵法は、恐らくだけど、信・義・礼・智を根幹としていると思われる。また、荀子の説く王道は、最強の王道を暗示している。

 孫子の兵法や、韓非子の法術は確かに優れているのだけど、荀子の王道の前では、何の役にも立たないもののように感じる。もし、孫子の兵法と韓非子の法術を完全に体得した荀子の王道のことを全く知らない人がいたとする。この人が、王道を体現する人と争うことになったとする。こうなったとき、例えば、太い金属の柱に腐りかけた木の枝を叩きつけたときのように、前者の人は後者の王道を体現する人に対して、傷を負わすどころか、玉砕してしまうように思う。それほどに強力なのが、荀子の王道であると感じられたのだ。

 別の言い方をすると、荀子の王道を理解し体現できる人は、孫子韓非子の兵法や法術を理解し体現することもできるだろう。つまり、これらは、理論的道理的に包括関係であり、次元においての格が違う段階にあると思われる。それで、言うまでもないけど、荀子の王道の方が格上である。

 また暫く荀子を研究してみようかと思う。

 荀子の王道には、計算や理論、効率といったものを超越するような、ありのままでいいような、さかしらなことを越えた何かがあるような気がする。