韓非子を読んでいて2

 最近は、仕事の休み時間などを利用して、韓非子を読んでいるのだけど、やはり、韓非子は素晴らしい。内容としても、文学作品としてもだ。私は書き下し文だけ読んで、たまに意味のわからないときは、漢文か和訳を読んでいるのだけど、そのたまに漢文を読んだ時は特に凄い。見るからに美しい文字の並び方、大げさかもしれないけど、目に焼きつくような印象を受ける。書き下し文を読むだけでも、論体、論調、論法、またそれを裏打ちする理論と哲学の美しさや、素晴らしさは十分に分かる。

 そして、内容の素晴らしさを敢えて形容するなら、中華統一を果たした秦の始皇帝が、法術を用いたが故にその偉業を達成したという事実を示すことだけで十分であろう。

 私の読んでいる限りだと、韓非は孫子を読んだことがないのではないかと思った。もし読んだことがあるとしても、方向性としては違うような内容しか書かれていないと思う。敢えて、そういった兵法書に記されているようなことは記さなかったのかもしれない。または、孫子のような危ない(敵国に渡ると強力すぎてという意味)書物は、固く一子相伝で封印されていたのかもしれない。私がそういった立場にあったら、間違いなくそうする。孫子もそれほどに恐ろしい書物だ。

 全て素晴らしいのだけど、読んで初めて知ったこともあった。それは、法術の士しか分からないような感覚があると思ったからだ。また、それを記録に留めるために、この日記を書くことにした。

 感覚的なことなので、うまく表現できないかもしれないが、法術の中には一般的な考え方では捉えきれない部分がある。ちょっと原文がどこにあったか忘れた関係で原文を示せないのが残念だけど、「法で人を罰するのは、小さい罪を咎めるためでなく、大悪を封じるためである。また、そのために、小さな罪にも大きな罰を定めるのである」と言った内容のことだ。(観行第24から用人第27の間にある)このような「法術の用い方」というのは、一見簡単であるけど、そこには、一般人では理解できない部分がある。そういった意味で、国家の用いるべき「法術」と我々が知っている「法」は全く違う概念のものかもしれない。そして、国家として用いるべきはもちろん「法術」である。国家に「法術」が用いられるならば、たちまちにして天下りは無くなり、たちまちにして不平等社会保障は無くなるだろう。そういった可能性が韓非子の法術には秘められている。惜しむらくは、現在の立法機関(国会)は、「法」を知ってはいても、「法術」は知らないであろうと言うことだ。

 というか、孫子韓非子を完全に体得すると、言葉は適切でないかもしれないが「最強」になれる気がする。 

2012.1.21