アダムスミス 道徳感情論 要約 2

第3篇 適宜性と両立しうる、さまざまな情念の程度について

序論

 情念の適宜性を判断するにあたって、二つの情念に関する観察及び判断が為される。つまり、情念の大小と、情念の種類である。この判断を経て、礼儀正しいとか、不謹慎とか言った適宜性が判断されるのである。

第1章 肉体に起源を持つ諸情念について

 具体的には、痛み、性に関する欲求、飢えなどが挙げられる。いずれも、その表現は、不謹慎として非難され、同感されることはまれである。最も同感を得やすい痛みに関しても、過度の表現は非難を受ける。また、痛みに関する同感は、条件によっていろいろと違いが生まれる。歯痛や腹いたは、それが最上級のものであっても、生々しい切り傷に対する同感と同じだけの同感を受けることが無い。

第2章 想像力の特定の傾向または慣習に起源をもつ諸情念について

 想像力に起源をもつ諸情念の代表に恋愛感情がある。例えば、友人の恋愛対象に、その友人と同じ情念を同感することはない。恋愛小説で同感するのは、その恋愛感情そのものでなくて、その恋愛感情に伴った副次物である困苦や悲嘆の方になのである。クラブや哲学など特定の対象に対する諸情念についても同じことが言える。つまり、想像力に起源をもつ諸情念の中でも、特定の対象に対する、長い時間をかけた特定の傾向や慣習によって生まれるような諸情念は常に同感を受けにくい。

第3章 非社会的な諸情念について

 具体的には、怒り・憎悪、またはそれに伴った復讐心や不安、または破壊衝動のこと。これらは、基本的に、その情念を持つ人がそれを大きく引き下げることによってしか、同感を受けることはない。
 例えば、牢獄・手術用具のようなものは、宮殿・戦争の道具に対して、社会的にはるかに有用であるが、前者が人に不快の念を想起させ、また、逆に後者は愉快な念を想起させる。これは、遠いところまで想像力が及ばないからである。
 よって、義憤が同感を受けるためには、その表面的な諸情念(怒り・憎悪・破壊に起因するもの)が適切に抑制されていなければならない。また、その諸情念がないことにより受ける侮辱・損害などが永久的なものであることが、他者にとっても分かりやすくなければならない。

第4章 社会的な諸情念について

 寛容・人間愛・親切・同情・相互の友情と尊敬などのこと。これらは、こと同情という範囲においては、上限なく同感を受ける。もしも過度なものが適切な同感を得ない場合は、それが社会に受け入れられないことにより被る損害についての心配を伴う。(嫉妬については触れられていない)またこれらの諸情念は、「愛されている」「愛している」というどちらについても、そして、相互にであるなら、なお更に同感することができるし、また、それはそれ自体で快いものだ。

第5章 利己的な諸情念について

 非社会的、または社会的諸情念とは別の諸情念のこと。(これの負のものは、非社会的諸情念と、また、これの陽のものは、社会的諸情念と似ている。:個人的な補足)
 利己(恐らく原語はselfish)に起因する歓喜は、小さく習慣的なもの(例えば青春の歓喜)ほど同感を受けやすく、大きく突発的なもの(急な出世)だと非難(嫉妬)の対象となる。
 逆に、利己に起因する悲嘆・困苦は、小さいこと(些細なことで機嫌を悪くすること)ほど同感を受けにくく、大きいものほど同感の対象となる。

感想
 同じ感情を起因と対象によって峻別していることがわかる。例えば、怒りは、それ自体として、非社会的諸情動ということになるが、起因に遡ると個人の利益に起因するもの、公共に起因するものとわけることができる。つまり、例えば怒りは、A.怒りそれ自体、B.社会の利益に起因する怒り(義憤)、C.個人の利益に起因する怒りの、三つの内面的に異なる諸情動・諸現象が複雑に絡み合ったものである。ここで取り扱われているのは、Cについてのみのことだ。愛などの諸情動も、同様に考えることができる。

まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120308/1331203887